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映画「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」
少し前に「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」という映画を観た。こうの史代の原作漫画の長編アニメーション映画で、もともとは2016年にミニシアター系の映画館を中心に封切られたものである。その後、累計動員数210万人を超える大ヒット作品となっているので、ご存知の方も多いと思う。
今回、僕が観たのはオリジナル版「この世界の片隅に」に約40分の追加シーンを加えた別バージョンとして公開されたものである。上映時間が2時間48分と、アニメーション映画としてはかなり長尺の部類に入る。
僕はオリジナル版は未見だったので、初めてこの物語に触れたのだが、3時間近い時間その世界観に引き込まれ、長さを感じることは全くなかった。むしろ、その長さ(積み重ねた時間)があるからこそ、味わい深い作品となっているように思う。
作品の概要
徹底したディテールの積み重ね
簡単に物語のあらすじを説明すると、戦時下の広島県・呉を舞台に、一人の女性「すず」が、夫の周作とその家族とともに過ごす日々を丹念につづったものである。あらすじといっても、劇的なストーリー展開はない。
すずは18歳で、広島から呉の北条家に嫁ぐのだが、結婚してからの日常生活を、人々の心情を豊かに、そしてディテールを細かく描きだしている。
例えば食事。当時の配給はどんなものがあったのか、限られた食材でどんなもの調理していたのか、闇市では何が売られていたのかなど北条家の生活を通してつぶさにみることが出来る。原作もかなり時代考証がしっかりと考慮された作品であったが、映画においては音や動きも加わるため、さらに徹底して当時の時代背景を調べる必要がある。
監督の片淵氏は、「戦争を生きるリアルな空気感を伝えること」を作品を作る上で一つの命題にしていたという。そのため当時の毎日の天気予報、空襲の警報発令時刻、店の品ぞろえの変化、広島弁と呉弁の微妙な違いなど、事細かに調べ上げ、物語のディテールとして組み込んだとのことだ。物語のリアリティとは、そうしたディテールの膨大な積み重ねがあって、初めて奥深さが増すのである。
物語の時系列
昭和19年の中旬頃までは、配給等の制限があり人々の生活は苦しかったものの、一般市民への戦闘による被災はまだそれほど多くはなかった。それも19年後半頃から空襲警報が頻繁に発令されるようになり、戦没者も増え遺族のもとへ多くの悲報が届くようになる。それと比例して防空壕に避難したり、葬式(合同慰霊祭)に参列する場面も描かれる。
昭和20年3月には、呉にも空襲攻撃を受けるようになり(当時呉には大きな軍港があった)、民間人に多数の死傷者がでる。かといって、悲壮感ばかりがただよっていたわけではなく、同年4月には家族で花見にでかけるシーンがあり、多くの市民が花見を楽しむ描写がなされている。
世相が苦しくてもずっとふさぎ込んでいるわけにもいかず、そんな中でも桜を楽しむ気持ちを忘れたくない、それが日々を懸命に生きていく当時の人々のリアルな心情だったかもしれない、と思わせる。
主人公のすずは、おっとりとした性格の持ち主として描かれているし、夫の周作をはじめ北条家の人々もすずに対して優しく接する。義姉の径子はテキパキとした性格で、いろいろと小言をいうが、一緒に暮らす時間を重ねるにつれ、すずを徐々に認めるようになる。物語全体に温かい雰囲気が覆っており、基本的にはほっこりするエピソードが数多く盛り込まれている。
しかしこの作品にはそれだけにとどまらない特異性がある。もちろん心温まる物語という側面はあるが、容赦なく厳しい現実を突きつけ、予定調和な展開にはならない。
物語は時系列にそって着実に進んでいくが、前述のように19年後半頃から、徐々に人々の生活に戦争の影が覆ってくる。物語の終盤には怒涛のように、すずとその家族や友人たちに不幸な出来事が次々とふりかかる。そして映画を観ている側は、8月6日に広島に起きる出来事を知っているので、否が応でもさらなる不幸を連想してしまうのである。
これらの出来事が、過剰な演出なく淡々と描かれる。もちろん登場人物に感情がないということではなく、一つひとつの出来事に対し登場人物たちが嘆き悲しむ気持ちは充分に伝わってくる。それでも日常は続いていく。生き延びるためには、悲しみを秘めつつ厳しい現実の中で日常を再構築していくしかない。しかし不思議なことに作品を観ていて悲壮感が前面に出ていない。これも物語全体を温かい空気感が覆っているからであろう。
エピソードの紹介
すずと絵画
いくつか印象的なエピソードを紹介してみる。軍港を襲撃する米軍機を、軍艦が砲撃する場面がある。空に残った花火のような砲撃痕を目の当たりにして、すずは「今、手元に鉛筆とノートがあれば絵で描き留められるのに」という思いが咄嗟に脳裏をかすめるというシーンがある。生死のリスクがある場面で「絵を書く」ことがまず頭に浮かぶというのは、それだけ、すずのアイデンティティの一部になっていたということである。
絵を描く行為は、すずが持っていた最大の特技であり、小さいころからその才能を活かして人を喜ばせたり、感心させたりしていた。そのようなエピソードをすずの日常生活を通して物語の前半にたくさん盛り込まれていあたが、後半になって時限爆弾によって、すずはその能力を大きく失うことになる。
それまでに描かれたすずの過去を知っているだけに、とてつもない喪失感を感じさせる。つらく容赦がないエピソードではあるが、当時は同じくらい辛い出来事が数多くあっただろうと想像してしまう。
原爆の描写
原爆に対しても冷静に淡々と描く描写に徹している。呉は広島から約20㎞離れているので、原爆による直接の被害はない。それでも呉の自宅でも大きな閃光と地響きを感じ、広島で尋常ではないことが起こったのが分かる。
直接的な描写はなくても、広島から爆風で飛ばされてきた戸が木にひっかかっていたり、ボロボロの身体のまま広島から歩いてきて、呉の建物の軒先で座り込んだまま息絶える人など、爆心地から離れた場所からの客観的な描写が、あらためて原爆の悲惨さを感じさせる。
リンとすず
2016年版では、遊郭の娘リンという人物のシーンが大幅にカットされていたが、今回のバージョンではリンのエピソードがたっぷりと盛り込まれている。すずとリンは、ひょんなことから出合い、友人の間柄になるが、実は夫の周作とリンはかつて意外な関係があったことをすずは知ることとなる。
リンに対して嫉妬が入り混じった複雑な感情を抱きながら、周作に対して素直になれないすずの言動が表現されたりする。仲がいい夫婦の日常を描きつつ、決して全てが円満ではない。そういう繊細な感情を描いているところもリアリティを感じるのである。
物語の特徴
タイムスリップとしての経験
この作品は、ぱっと見、ほのぼのとした絵柄なので、子供も楽しめるヒューマンドラマととらえられがちだが、今まで述べてきた内容から分かるように、むしろ対象としては大人向けの内容となっている。ストーリーを楽しむというよりは、映画を通してその時代にタイムスリップして、戦争当時のすずの人生を追体験するといったほうが近いだろう。
すずの世界に自然に入り込めるほどディテールが作り込まれている。そのディテールを読み取り、ちょっとした感情の機知をくみ取れる年齢のほうが、物語に移入出来るからだ(余談だが、僕がこの映画を観た時、就学前位の子供が映画の終盤で泣いていた。物語に感動したのではなく3時間は長すぎてぐずって泣いていたようだった)。
戦争を題材としていても、直接的な戦闘シーンや血なまぐさいシーンはほとんどない。あくまで日常生活が主体の物語である。例えば、同じ原爆を題材にした漫画で「はだしのゲン」があるが、作中、皮膚が焼きただれた被爆者をストレートに表現し、戦争の悲惨さを際立たせるのに対して「この世界~」はあくまで日常を一瞬で破壊してしまう戦争の無情さを淡々を示すことで、観ている側の胸にずしんと何かを響かせるのである。これほど人々の生きる強さとともに、戦争の悲惨さを強烈に表現した作品には、なかなか出会えない。
逸品なリアリティ
原作の漫画の空気感や雰囲気を踏襲しつつ、観客をその世界観に引き込ませるには、なるほどアニメーション映画がベストな選択だったのだろうと思う。音響や大画面は大きな武器である。実写だとどうしてもイメージとのズレが生じてしまう(実際に実写版ドラマがあるらしいが見ていない)。
ただしアニメーションだと再現性は高いが、観客側が受け取る情報量が、漫画とは比較にならないほど多い。特に時代を追体験してもらうためには、バックボーンにあるリアリティが雑だと、一気に観客が覚めてしまう可能性がある。
ここで言うリアリティとは、最近のハリウッドアニメのように、贅沢な資金をバックにふんだんにCG技術を使って実写と見紛うようなリアリティのことではない。小さなディテールを積み重ねることで得られるリアリティである。それは丁寧さを重視した作り方とも言える。本作は徹底した資料集めをもとに、当時の呉の風景が再現され、街に息づく人々の暮らしを見事に描き切ってみせた稀有な作品とも言えるのだ。