これからの仕事はアート的発想が鍵をにぎる(3)

アート の特性

アート的発想が、今後働く上で重要になってくるということを2回のわたって述べてきた。この考え方は特に仕事においてのみ役立つということではなく、人が生きていく様々な場面で参考になると思うのである。ではどのように、その力を磨いていけばいいのだろうか?

アートというのは実態がつかみづらい。クラフトは経験に、サイエンスは科学に、それぞれはっきりとした根拠があるので比較的わかりやすい。実態がつかみにくい考え方や発想力を身につけるのは,いまいち分かりにくい。何か得体の知れないものに自分の判断を任せてもいいのだろうかという懸念もあろう。

論理的思考の限界

実態がつかみづらく感覚的なものに判断を置くというのは、特に仕事上避けるべきという考え方が正論のように言われることがある。「はっきりとした根拠がないことには、リスクが高く実施できない」等はまことしやかに頻繁に使われる言葉である。これが責任逃れからでる言葉であれば、みすみすチャンスを逃す可能性も高いのであるが、感情論で組織を動かすわけにはいかない等と言われれば一定の説得力はある。しかしながら、そのような考え方を盾に感覚的なものを極端に排除するということになれば問題である。

確かに人の感情はうつろい易い。ある人物に対して、1日違うだけで正反対の感情を抱くことも珍しくない。そんな不安定なものに判断の根拠は置けない。だから論理という道具を使って何とか感情を抑える。社会には感情的な思いだとか感覚的な圧力だとかが蔓延している。会社では理不尽な上司の意見を聞き、学校ではうっぷん晴らしのいじめが横行し、人が集まるところでは空気を読みながら行動する。特に日本では不可解な同調圧力も根強い。みんな理不尽な感情に振り回されるのに嫌気がさし、論理の傘を盾になんとか社会を回らせている。そんな一面も垣間見えるのである。

しかし感情に対する反証として論理の力だけを優先させるのは間違っている。論理的思考というのはもちろん大事である。ただ感情を制御するのは論理だけではない。むしろアートの力で自分自身に軸のようなものを積み上げていくことで、ふわっとしたつかみどころがないものが信頼がおけるものに変化していき、軸足に沿った思考が出来るようなるのではないか。そう思うのである。

オウム真理教におけるアート力の欠如

かつて社会を震撼させたオウム真理教という団体があった。その幹部たちの多くが偏差値の高い学歴を持つ者だった。受験勉強が得意だったということは、充分に論理的思考があったはずである。しかしそんな彼らでも、あの醜悪な教義にのめり込んでいったのである。オウム真理教の教義は極めてシステマティックであったらしい。この修行を終えたら次のステップというようにまるでゲームのような階層システムである。しかし、その教義の背景に流れていた思想には美意識が決定的に欠如していた。信者がオウム真理教に惹かれた理由というのは、事件を分析した記録物に詳しくいくつも述べられている。そして幹部の多くには文学的素養が全くといっていいほどなかったという事実は興味深い。

入信した当初は、理不尽な世の中に対し絶望し、オウム真理教の教義が世の中を救う希望の光明に見えたのだろう。しかしそれを選んでしまった背景には、個々の美意識や感性が未熟だったのだと言わざるを得ない。自明のことだが、人間社会は単純な勧善懲悪の社会ではない。様々な正義が絡み合って複雑な様相を呈している。オウムのように単純に敵か味方を分けて敵を抹殺しようとする世界観には、人や社会に対する深い洞察が全くない。

アート作品を通じて人を理解する

人は、それぞれが矛盾した内面を抱えている。100パーセント自分の思い通りに事がすすむことはないし、理不尽なことに対して無理矢理自分を抑え込むことも多いだろう。そんな理不尽な思いをどうにか処理したい、というニーズは人々の中に有史以前から存在していた。理屈で割り切れない、思いや感情を洗練された形で表出したのが数々の芸術作品である。そこには言葉には表せないが、強烈な何かが主張されており、多くの人に共感を得ているからこそ世の中に必要とされているわけである。そして多くの作品群に普段から触れておくことは、言葉よりさらに深いレベルで人や社会に対して理解を広げることに他ならない。少なくても、醜悪な世界観に惑わせられる可能性はずっと低くなるだろう。

絵画や音楽もそうだが、古くから世の中に親しまれている文学作品を読むと、心の奥に響き渡ることも多い。長期にわたって人々の評価に耐えてきた作品は、それだけ真理を突いた内容だからである。文学以外に、映画、演劇、漫画等、世の中には優れた物語が溢れている。その作品を通して、自分以外の人生を疑似体験してみれば、自身の血肉の一端となるかもしれない。そんな視点で味わってみてもいい。

少々大袈裟な言い方をすれば、アートの力を養うことで、生きていく上での知恵を得ることが出来る。時代背景から、ますます個人が主体的に考えることが求められている。仕事によっては、コミュニケーション力、英語、プログラミング等の技術を求められることがあるだろう。もちろん、それらの技術が重要でないとは言わないが、物事に対する考え方や発想力を磨くことのほうが、より根本的で本質にせまる力だと思うのである。

それぞれの相互作用を活かす

ここで注意したいのは、アート ・クラフト・サイエンスのバランスである。芸術作品によって感性を磨くのは重要だが、自身の経験を絡めていくことが不可欠だと思うのである。アートの力は、感性を磨くと同時に何かを抽象化する能力にも寄与する。抽象化のためには、具体的な出来事が必要である。それは個々の実体験が元になってくると思うのである。具体的な経験は、それはそれで貴重だが、さらに色を添えるには抽象化や感性等のアートの力であり、経験そのものに何倍もの価値を与えてくれる。

アートの力そのものは、経験に根ざしたクラフトの力がないと、絵に描いた餅になりがちである。そしてアートとクラフトだけでは、独善的になりがちである。サイエンスは、自分の思い込みや価値観を見直す協力な力となる。アート とクラフトの相互作用を常に意識しながら、サイエンスを用いてチェックをする。それが一つのモデルとなるパターンだと思うのである。

このシリーズのまとめ
‣アート・クラフト・サイエンスの3つの視点の中でアートの重要性が増している。
‣介護の分野では、人を理解する上でアート的な発想が求められる。
‣アート的発想は、根拠が論理的ではないので、人に理解を得られにくい。
‣理解を得られにくい反面、真似されにくく、強烈に人々の印象や感情に訴えることがある。
‣アートの力の欠如は、人や社会に対する決定的な理解の欠如をもたらす危険性がある。
‣普段から、文学、絵画、音楽等の芸術作品にふれて感性を養うことでアートの力は向上する。
‣アート・クラフト・サイエンスの考え方のバランスをとって、本質にせまる思考を磨いていこう。

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