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映画 グット・ウィル・ハンティング/旅立ち
少し古い映画だが「グット・ウィル・ハンティング/旅立ち」(1997年公開)という作品がある。
主演は、マット・デイモン。いまやハリウッドを代表する俳優であるが、この映画の撮影当時はまだ20代の無名の役者だった。
デイモンは、この映画の出演を契機に、一気にスターダムへの階段を駆け上がることになる。彼は主演と同時に、映画の脚本も手がけており、同作品はアカデミー脚本賞の栄誉にあずかる。
調べてみると、彼がこの作品の脚本を書いたのが弱冠22歳、まだ学生の頃だったらしい。当時、デイモンの友人だったベン・アフレックも脚本を共同執筆し、映画で共演を果たしている。
はっきりとは憶えていないが、僕がこの映画をレンタルで借りて、初めて観たのはおそらく30代前半の頃だったと思う。当時の僕が強烈な印象を受けたのは、自分よりずっと若い年齢の人物が、これほど円熟味のある脚本を書けるのか、という驚きだった。
思い返してみると、22の頃の自分なんて社会にも出ておらず、世の中のことを何もわかっていない若造だった。でも好奇心や知識欲は中途半端にあったので、新しく仕入れた知識を自分に取り入れて何かわかったような気になっていたところもあった。
「知識として知る」と「経験を通して知る」、この2つの間には物事を理解するに当たって、とても大きな違いがある。具体的な体験を通して、初めて腹の底から府に落ちた、という経験は誰にでもあるだろう。
もちろん、年齢が上だからといって経験が豊富だとは限らない。そして、その理解が正しいかどうかはまた別の問題である。しかし往々にして、年齢が若いと経験が足りず、ゆえに表面的な理解にとどまりがちなのも事実である(それが逆に武器になる場合もあるが)。
特に「人」に対する理解は、愛情を育んだり喜びあったり、時には喧嘩したり寂しい思いをしたり、そうした人との交流を通じて培われていくものだろう。
そういう意味で、22歳でこの脚本を書いたというのは驚嘆に値する。「人」の奥深い感情を見事に表現しているストーリーだからである。
そしてもう一つ注目すべき点は、映画のキーパーソンともいうべき人物を、ロビン・ウィリアムズが演じているという点である。
残念ながら、すでに鬼籍に入ってしまったが、彼ほど人間味あふれる演技ができる役者はなかなかいない。ロビン・ウィリアムズが画面に出ることで、セリフに生命がみなぎり、映画に深みを与えている。
映画の魅力にせまる
心に傷を持つウィルとショーン
今回は、特に印象に残ったワンシーンを紹介したい。そのシーンに至るまでの経緯を簡単に説明しよう。
孤児としてスラム街で生まれ育ったウィル・ハンティング(マット・デイモン)。天才的な頭脳を持ちながら、幼少期に受けた虐待を主因とする心の問題を抱えていた。ウィルはケンカをしては鑑別所入りを繰り返す素行の悪い青年だった。

ウィル・ハンティング
マサチューセッツ工科大学数学科教授のジェラルド・ランボー(ステラン・スカルスガルド)は、学生たちに数学の難問を出す。世界屈指の優秀な学生たちが悪戦苦闘する中、いとも簡単に正解を出す者が現れた。その人物は学生ではなく、大学でアルバイト清掃員として働くウィルだった。

ランボー教授
ランボーはウィルの非凡な才能に目をつけ、暴行事件で収監直前だったウィルの窮地を救い、彼の才能を世に出すために、著名なセラピストを手配したり、就職先を紹介したりする。
しかし心に深い傷を持つウィルは決して人に心を開こうとしない。セラピストたちは、皆ウィルにあざ笑うようにあしらわれ、立腹したりサジを投げ出したりして離れていく。
ランボーは最後の手段として、学生時代の同級生で心理学の講師ショーン・マグワイア(ロビン・ウィリアムズ)にセラピーを依頼する。ショーンは、初めは断ろうとしたがウィルの更生のため協力することになる。

ショーン・マグワイア
ショーンもまた、最愛の妻を2年前に亡くし、いつ癒えるとも知れぬ深い悲しみの傷を心に秘めていた。
二人の出会い
ウィルとショーンが初めて出会ったとき、今までのセラピーと同じようにウィルはショーンに対して小馬鹿にしたような態度をとる。そしてカウンセリングセラピーの最中、一枚の絵に目を止める。
室内に飾ってあった小舟の絵を読み解くことによって、ショーンの心に土足でずかずか上がり込み、まだ癒えぬ傷を掻き回すようなことをする。絵は、ショーン自身が描いたもので、嵐のなかに孤舟が浮かぶもの。その舟がショーン自身で、ショーンは嵐のなかに孤立しており、早く安全な港に逃げ込みたいと思っている。その港が心理学の世界だ、とウィルは同情も共感もなく嘲笑含みに指摘し、ショーンの妻について無遠慮な質問をして挑発し始める。
すると、温厚なショーンが怒りに満ちた表情でウィルに掴みかかり、その喉を締め上げて、「妻を侮辱するようなことは二度と言うな!」と、強い口調で告げる。二人の出会いはこのように散々なものだった。
セラピーの後、ショーンにも断られてしまうのだろうかと、不安になったランボーが尋ねると、「次回は、木曜の午後4時。絶対に来るようにと伝えてくれ。」と、ショーンはランボーに告げる。
公園のシーン
そして木曜日。ショーンのカウンセリングルームにウィルが再び訪れる。ショーンは部屋を出て、ウィルを公園に連れ出す。
僕が印象に残ったシーンは、この公園での二人のやりとりである。言葉で表現するよりも、映像で見た方がずっとセリフの重みを感じられるので、動画を挙げておく(二番目の動画は、画像は粗いが字幕付きである)。
とても長いショーンのセリフ、たんたんと語っているが、人と人が関わることの本質をついており、だからこそ心に響く。
初めは自分を強く見せようといきがっていたウィルだが、言葉による圧倒的な人間の器の違いを見せつけられ、ぐうの音も出なくなる。
往々にして人が心を動かされる時は、相手が自分という人間をきちんと見てくれたと感じた時だ。どこかでつまみ取った知識をもとにやりとりされても、むしろ虚しく感じるだけである。「人」を無視した言葉のやりとりは、情報の交換でしかない。時には心を傷つけるナイフにもなり得る。
人生を味わい深く彩りたいならば、心を揺さぶられる瞬間を大事にしていくしかない。そのためにはベースに相手に対する信頼、共感、興味だったり、尊敬、受容といった態度がなければ成り立たないだろう。
僕自身、実生活で周りにいる人たちに、常にそういう態度で接しているかといえば、甚だ疑問である。ついつい自分よがりな態度をとってしまい、関係性をこじらせてしまう時もある。そんな人との関係性に行き詰まった時、ふとショーンのセリフが頭の中で反芻されることがある。
「君から学ぶことは何もない。(君が話すことは)本に書いてある」
「君自身の話しなら喜んで聞こう。君って人間に興味があるから」
僕は本当に相手を見ているのだろうか?相手を「人」として捉え、何を考えているか、どのように感じているか想像できているだろうか?逆に相手は、僕に対して何を求めているのだろうか?「人」の部分をオープンにして話しているのだろうか?
もちろん全ての人に対して四六時中考える必要はないと思うが、大事なのは自分が人生の中で何を求めているかである。人生を味わい深いものにしたいならば、そういった視点で人との関係性を見つめ直してみるのも悪くないだろう。
どんな本を何十冊読もうとも、目の前の「人」を知ろうとする気持ちがなければ、その人を知ったことにはならない。ただ目の前の人が自分を受容して話しを聞こうとしてくれる。それだけでも、どれだけ力強く感じるか計り知れない。
心に染み入るセリフ
このシーンを契機に、ウィルは少しずつショーンと向き合いはじめる。しかし、まだまだ彼の心の壁は固いままだ。世の中に反発を繰り返しつつ、同時並行でチャッキー(ベン・アフレック)をはじめとする悪友たちやハーバード大の学生の恋人スカイラー(ミニ・ドライバー)との交流が描かれる。

チャッキー(ウィルの右隣)とスカイラー(左端)
工事現場でチャッキーがウィルに投げかける厳しくも友人を思いやる言葉、愛するがゆえにお互いを傷つけてしまうスカイラーとウィルのやりとり等々、心に染み入るセリフが数多くこの映画には盛り込まれている。
そんな様々な経験を経て、物語のクライマックスにウィルは心の固い殻から抜け出し、自分の真の姿をショーンにさらけ出すシーンを迎える。子供のように嗚咽しながら「僕を許してくれ」と言葉をひねり出す。そんなウィルをショーンは父親のように抱きしめる、とても感動的なシーンだ。
以上、映画「グット・ウィル・ハンティング」の魅力について語ってみた。大切な人とは誠実に向き合いたい、人生において「人」との交流を大事にしたい、という価値観を持つ人ならば、きっと映画の中で琴線にふれるセリフにめぐり合えるだろう。