ゲームからみる娯楽の発展(後編)

ゲーム人口が増えるには

前回の記事でeスポーツが今後、劇的に伸びていく可能性があることを述べた。その前提としてゲームをプレイする人口が今以上に増える必要がある。母体が大きくなれば、必然的に愛好家も増えるはずである。

そのためにはゲームを始めるきっかけが重要になる。スポーツで考えてみればわかるが、簡単に始めやすいスポーツほど(もちろん面白いスポーツであることが前提だが)世界中で受け入れられている。例えばサッカーは、極端に言えば人と広い場所とサッカーボールさえあれば遊ぶことが出来る。別にやり始めるのにお金はたいしてかからない。

野球にしても、ボールとバットさえあれば、多少人が少なくても別に楽しもうと思えばできる。実際、子供の頃は適当にルールをアレンジして遊んでいたはずだ。それだけ参入しやすく、遊ぶ機会も多いので、その後の人生で野球をプレイする人口の母体も大きくなる。

テクノロジーによる低価格化

ゲームに関していえば、今まではハード機器であるゲーム機本体(例えばファミコン、PlayStation等)とゲームソフトをそれぞれ購入する必要があった。最近の高度な画像処理が必要なゲームになると、数十万円もするハイスペックなPCが場合によっては必要である。それがなかなかゲームに手をだせない壁にもなっていた。

そのハードルを下げるサービスが近い将来整いつつある。例えばGoogleが提供しているStadiaというクラウドサービスは、Google側のサーバーでゲーム処理を行うので、ユーザーはプレイする画面さえあればハイスペックなPCを購入する必要がなくなる。

またAppleはArcadeというゲームのサブスクリプションサービスを開始することを発表している。これは映画のNetflixや音楽のSpotifyのゲーム版のようなもので、今までは映画を1本1本レンタルしたり、CDを購入していたのが低額な使用料で大量のコンテンツを利用できる仕組みと同じで、その都度ゲームソフトを購入する必要がなくなるのである。

すなわち、これらのプラットフォームが一般的に利用され始めると、ゲームに要する費用が下がり、ゲームを始めるハードルが圧倒的に低くなり、爆発的に利用人口が増える可能性があるのだ。

AI革命による余剰時間の増加

もう一つ、ゲーム人口が増える理由を挙げるとすれば、社会構造の変化によって娯楽に対するニーズが高まるという点である。以前の記事でも述べたが、世の中の産業自体がモノづくりから新しい価値を生み出すサービスへと中心軸が移っている。

そうなると人々の興味は、娯楽性があるものに関心が向くのである。モノを作るという仕事は、今後AIによってかなりの部分が代替され得る。AIによって仕事が奪われるといったネガティブな印象論も根強いが、逆に言えば、今まで人がやっていた仕事を機械がやってくれるので、その分人には余剰時間が増えるのである。

歴史を見返すと産業革命によって人類の生活は劇的に変わった。それまでは人類は食べるために多くの人員と時間を農業にさかなければならなかった。産業革命によって、農作業が機械化されるにつれ人々の人生に余剰時間が生じた。

産業革命が始まったのが18世紀半ばであるが、人々がその恩恵を受け始めた地域に19世紀初旬から後半にかけて、ベースボール、バスケットボール、バレーボール等のスポーツが次々と発祥し伝播した。

チームプレーがメインのスポーツが数多く生まれたのも、多数の人が娯楽としてスポーツに興じる時間が持てたからと言える。

産業革命の時と同じく、AIによって人の手を借りずに生産性があがれば、人々は娯楽に対して、より多くの時間を割くことが出来る。その時はスポーツと共にゲームも有力な選択肢となっているだろう。前述したように費用的にもゲーム利用のハードルが低くなっている。とりあえずやってみよう、と軽い気持ちで始められるので、ゲーマーの裾野は一気に広まるに違いない。

ゲームに対する懸念

現状ではゲームに対する嫌悪感が一部の人たちにあるのは事実だと思う。特に日本ではゲーム=何も学ぶものがない、という先入観も強く、興行化を妨げている原因になっているように思える。30年位前はパソコンといえばネクラなオタクがいじるものというイメージだったが、現在のように当たり前に仕事でもプライベートでも使われるようになると、誰もそんなこと思わないように、ゲーム人口が圧倒的に増えてしまえば、そのような意見も少数派になるだろう。

反対にゲーム自体から学ぶことがないからなんなんだ?と問いたい。娯楽そのものに何かを学ぶ価値を求めるのがおかしい。純粋に娯楽を楽しめばいいだけである。野球だって、ボールにバットをあてて飛ばす行為に何の意味があるのか?将棋にしたって駒の動きの何百手先を読むことに何の意味があるのか?普通に生活していく上でまったく無意味な能力である。

かと言って、その道を極めた達人たちが娯楽を通じて何も学んでいないかといったらそうではないだろう。例えばイチローや羽生善治が人生の真髄にせまるような名言をいくつも残しているように、それは何かに愚直にまで真剣に取り組んだ結果からでる言葉なのである。

野球や将棋自体が素晴らしいのではない。それはあくまで娯楽のためのルールであって良いも悪いもない。真剣に野球や将棋に取り組んだら、その過程で結果的に様々なことを学んだ、というほうが正しい。コンピューターゲームが対象であってもきっとそれは同じことだろう。

そして通信技術の発達によって、ますますゲームのオンライン化が進むことが予想される。ゲームによっては綿密なチームプレーが要求されることもあるし、そうなると一人で黙々とプレーするというイメージもだいぶ払拭されるだろう。

全年齢層に広がる娯楽

さて最後に、コンピューターゲームの新たな可能性を、介護業界に身を置いている視点から少し述べてみたい。今までは高齢者の娯楽といえば、囲碁将棋などのボードゲームがメインでかなり種類が限られてきた。スポーツは身体能力が高い若者が圧倒的に有利であり、選手層としてかかわることは、ほぼ皆無だった。

しかしコンピューターゲームという土俵では、まだまだ新しいゲームを策定できる無限大の可能性がある。実際のスポーツでは土地という物理的制限、体力という身体的制限がどうしてもつきまとうが、ゲームには、ほぼその制限がない。5Gの記事でも書いたとおり、VRや触覚伝送のテクノロジーを使えば、身体的な動きをゲームに取り入れることは充分に可能である。ニンテンドーWiiはその先駆的な取り組みだと思う。ゲームであれば身体と頭脳、経験等のそれぞれの必要能力をいい塩梅で調整したかたちでのルールができるのではないかと思うのである。

さらに言えば、若年層に偏りがちだった年齢層を、全年齢層が楽しむ娯楽に発展する可能性もある。例えば反射神経や瞬発力等は、どうしても年齢によって能力の差がでてしまうが、ハンディキャップをつけることが比較的容易にできるのではないか。そうすれば全年齢層が同じ土俵で楽しむことも出来る。そうなれば高齢者も表舞台にでる機会も増えるのでないだろうか。

いろいろとゲームについて楽観的な未来を述べてみた。ずいぶんと肩入れしてるではないかと思われるかもしれないが、実際のところ僕は今あるゲームについてよく知らないし、夢中になっているゲームがあるわけではない。しかし「ゲーム的な考え方」は日常生活や仕事にも活かせる。すなわち人が楽しめることを考え、それをルール化する。そして周りの人たちと楽しんでみる。こういう考え方がもっと一般的になれば、もっと住みやすい社会になるのではないか、という期待感をこめてゲームの未来を楽しみに迎えたい。

 

 

 

 

 

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