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サピエンス全史における認知革命
サピエンス全史。読みたいと思っていて、ずっと手を出せずにいた本である。人類の誕生まで遡って、何故人類はこれほどまでに繁栄したのか、原始時代から現代にわたって歴史を追いながら、壮大なスケールで解き明かすというのが本書のテーマである。いかにも僕好みのテーマだったので、ゆっくりと腰を落ち着かせて読みたかったのだが、なかなか時間が取れず、最近になってやっと読む機会を得た。
評判にたがわず、膨大な知識を縦横無尽に駆使して、人類の歴史を紐解く過程は抜群に面白い。なので印象に残ったところをブログに書き記しておく。
著者のユヴァル・ノア・ハラリ氏によると、我々人類は今までの歴史の中で、3つの革命を経て現代に至っていると言う。すなわち「認知革命」「農業革命」「科学革命」である。今回はこの「認知革命」にテーマを絞って述べてみたい。
ホモ・サピエンスの台頭
一般的に人類は一直線に進化してきたというイメージがある。例えば、アウストラロピテクスのようなチンパンジーに近い形態から、ネアンデルタール人のような形態を経てホモ・サピエンスに進化したという下図のようなイメージである。
実際のところ、一直線に進化したという説は正確ではなく、実は200万年前から1万3千年位前までには複数の人類種が併存していたのだ。自然界としては、それは珍しいことではない。現在でも犬に様々な種がいるように、人類にも現代人の祖先であるホモサピエンスやネアンデルタール人、フローレス人等が同じ地球上に生息していた。
それが、ある時を境にホモサピエンスが他の人類種を駆逐し始める。ホモサピエンスは他の人類種と比べて頭脳が明晰でも、腕力が強かったわけでもない。別に特別DNAが優秀だったいうことではないのだ。それが7万年位前から人類種の生存競争に圧倒的な強さをみせ、1万3千年前ころには、唯一の人類種として地球上に君臨することになった。一体ホモサピエンスにどのような変化があって、他を圧倒する力をもつようになったのだろうか?それが認知革命による影響なのである。
虚構を信じる力
認知革命とは何か?それは「虚構を信じる力」を得たということである。とりあえず何かしらの事柄を、実在することにしておきましょうと仮定し、それを集団で信じてしまうということである。例えば「神」。この世に神がいると仮定し、神を崇めれば死んでも天国にいけると信じれば、それまで以上の力を出しきる可能性がでてくる。それが宗教の原型であり、逆に言えば宗教は人々が虚構を信じる能力がないと成り立たない。神の実存の証明はできないし、証明できない事柄を無条件で信じてもらうしかないのだ。
虚構を信じることは、現代の人間にとってあまりにも当たり前で空気を吸う程度の自然な能力だが、他の生物にはない能力である。お金という概念も国家という概念も、その価値や概念を人類が共有しているから成り立っているだけであって、実際のところは、お金自体はただの紙切れだし、国と言ってもそういうものがあるという虚構をみんなで共有しているにすぎない。
宗教や国というと壮大な虚構だが、人類に認知革命の波が訪れた時、ちょっとした虚構が、他の人類種と大きな違いをもたらしたに違いない。虚構を信じるというのは目で見える以外の事柄を信じられる、ということである。例えばあそこの丘の近くに仲間が隠れているぞ、と目に見えない事柄を信じれば、戦略的に協力して敵を挟撃して打ち負かすようなことが出来る。
ウソであれ本当であれ、人々が共通認識を持てば、それは虚構として成り立つ。うわさ話しであっても、自分たちの後ろには多くの味方がひかえている、と信じれば想像力が無限の力を引き出す。その虚構が人々を繋ぎ、知らない人たち同士でも協力することができた。それに比べ、目でみるものしか信じない他の人類種はどうしてもチームが大きくならず、大多数で戦略的に動くホモ・サピエンスに全く歯が立たなかった。
他の人類種との戦闘に限らず、狩猟においても、ホモ・サピエンスの圧倒的優位性は崩れなかった。虚構を信じれば、何十人何百人規模で見ず知らずの人たちで協力し合い、野生動物を効果的に罠にしかける、なんてことも容易に実践していただろう。そうやって自らの縄張りを徐々に広げていき、ついには他の人類種は絶滅されるに至った。以上がサピエンス全史で述べられている認知革命の概要である。
人間社会と虚構
3つの革命と相転移
認知革命を経た後の人類は、長い時間をかけて人類同士の争いで歴史を紡ぐことになる。違う側面からみると、歴史とはどうやって人々に虚構を信じさせるか、その競い合いをしてきたといっていい。宗教や国家間の血を血で洗う歴史は、自分たちの信じている虚構をどれだけ多くの人に信じこませるか、その繰り返しであり、現代でもその争いは、かたちを変えながら継続しているのだ。
物理学では、相転移という概念があるが、認知革命は人類における相転移だったとも言える。相転移とは、水が氷になったり水蒸気になるように、ある系が別の相に変化することを言う。同じ人類には違いないが、認知革命を経た後と前では、全くその質が異なるということである。
認知革命を経た後に、人類はさらに農業革命、科学革命と二段階の相転移を経ることになる。まるでフリーザが変身するように、その形態を変化させているのだ。いや、フリーザは姿形を変えるが、人類は姿形を変えずにその質を変化させている。特に人の集合体である社会としてみた時、まさに相転移のごとく各革命前後で全く違う様相を呈している。
農業革命と科学革命は認知革命の土台の上に成り立っているから、いわば人間が人間たらしめている根幹部分が虚構の共有だといっていい。人間社会のすべては虚構である。虚構前提で世の中が成り立っている。言葉だって虚構の産物である。何か”伝えたいこと””言いたいこと”をとりあえずこういう単語でみんなで表現しようという共通認識が言葉であり言語である。その言語を基に貨幣だとか法律等の仕組みが構築され、人権やら道徳、規範といった概念が生みだされていったのだ。
虚構を認識する
「だからどうした、虚構であれ何であれ、それが現実として目の前にあるならば現実として対処するだけだ」と言われれば、それはその通りである。でも虚構として認識しておく重要性は計り知れない。世の中が虚構だということを、僕は二十歳の頃にある書物で気付かされ、パラダイムシフトの如く視点が変化したが、同時に生きるのが少し楽になった。世の中で絶対正しいと思われていることが虚構ならば、こうしなければいけないという思い込みの呪縛から逃れられる。逆に絶対的な真実だと思われている事柄が、確実ではなくなる可能性も常に秘めている。意識として一縷の望みをどこかに持ち続けていられるのだ。
そんなことに思いを巡らせつつ「サピエンス全史」を読んでみた。単なる歴史としての読み物ではなく、歴史学の視点から、人間の本質に迫り解き明かす良書である。