ジョーカー 悪の存在

ジョーカーと悪の存在

今回は上映中の映画「ジョーカー」について述べてみたい。思いのままに書くと、上手くまとまらないかもしれないのでテーマを絞って述べてみたい。テーマは「悪」である。すなわち悪とはどのような存在で、どのように生み出されるか、ということについてである。

「ジョーカー」は、一人の男の人生に焦点を当てることで、善良な市民が悪に堕ちていく様そのものを描いている。映画自体は良く出来た作品だと思うが、悪の描き方についてどうしても腑に落ちない部分がある。その点について批判を試みてみたい。映画の根本にあたるテーマなので、今回の記事はネタばれを含む内容となっている。未見の方はご注意願いたい。

ダークナイトのジョーカー

ダークナイトの世界観

さてバットマンのジョーカーと言えば「ダークナイト」のジョーカーを抜きにしては語れない。ヒース・レジャー演じるジョーカーは悪そのものである。悪行そのものを楽しみ、全く躊躇することなく犯罪を重ね、人を簡単に裏切り、サイコパス的で頭脳明晰。まさに悪党中の悪党である。

ちなみにダークナイトという映画は、一部女性からの評判がすこぶる悪いらしい。その理由は、バットマンの苦悩だとか、正義の行使に関する小難しい哲学的なテーマを表現しようとしているくせに、それをコスプレをしたおっさん達が真面目に演じている違和感とでも言おうか。

アメコミヒーローは、もともとは少年性の産物であり、劇中ではバットモービルという改造された車やらバイク等の兵器がでてくるし、その設定が複雑に積み重なると、オタク的要素が高まる。それに夢中になって、熱心に語っている男をみるとバカに見えるらしい。

つまりはその独自の世界観を受け入れられるかどうかが、映画を楽しむための前提条件となるわけだが、その世界観が現実離れしており、なおかつ雰囲気が終始どんよりとしていてハッピーエンドでもない。恋愛ものやヒューマンドラマに慣れていると、その世界観に馴染むのには少々ハードルがあるのだ。

正義に対する存在

ダークナイトの中でも特に異彩を放っているのが、ジョーカーというキャラクターである。奇抜なメイクをほどこし、とにかく世の社会倫理を笑い飛ばし、好き放題に悪事を働く。こんな目立つ格好して街中ウロチョロしているんだから、さっさと逮捕すればいいのに、と言われれば身も蓋もないのである。

白状すれば僕は少なからず、このキャラクターに魅せられたのは事実だ。それには、まずバットマンの世界観を受け入れる必要がある。バットマンという強烈な実行力を持つ正義のヒーローが存在している故に、その対比で悪のカリスマとしてジョーカーが輝くのである。だこらこそジョーカーはバットマンを散々苦しめるが、こうも言うのだ。

「俺はお前を殺さないさ。お前がいなきゃケチな泥棒に逆戻り。そんなのはダメだ・・・。お前が、俺を完璧なものにするんだ。」

ダークナイトのジョーカーのような存在は、現実世界では有り得ない。バットモービルが突然出現して悪党どもをなぎ倒す奇想天外なゴッサムシティにこそジョーカーは活きるのである。それは物語の設定があって初めて存在し得るのであり、だからこそ分かりやすく強烈に観客にメッセージが届くのだ。

「ジョーカー」のジョーカー

リアルな世界観

映画「ジョーカー」は、それまでのアメコミものとは別に、リアル路線でストーリーが展開する。主人公アーサーが住む街はゴッサムシティと銘打っているものの、40年前のニューヨークと言われても違和感がない。その頃のニューヨークの治安は最悪であり、退廃的なゴッサムシティとイメージが重なる。勿論バットマンもいないし、バットモービルも登場しない。

アーサーはゴッサムシティで暮らすコメディアン志望の人物である。人々を狂気で恐怖に陥れるジョーカーではなく、孤独で冴えない男として描かれる。唯一、ジョーカーに通じる特徴と言えば「笑い」である。笑いはこの映画のキーポイントである。

アーサーは感情が高ぶると反射的に笑い出すという特異な性質を持っていた。彼に次々に襲い掛かる不幸な出来事は、大抵この笑いが発端となっている。笑いたくもないのに笑ってしまい、人々の不興を買ってしまう。楽しく笑うのではなく苦しくて笑う。その場面は見ていて切なくなってくる。

アーサーの笑いは、あくまでも病気という設定であり(本当にそういう病気があるかどうかは別として)、リアルな世界の延長上にある特徴に過ぎない。ダークナイトのジョーカーの笑いは悪事を楽しむ笑いであり、ジョーカーならではの笑いである。様々な架空の物語で、悪役がそういった高笑いをする演出はよくあるが、現実世界で悪事を働きながらリアルに大笑いする人間など滅多にお目にかかれない。

悪へ変貌する違和感

アーサーは、世の中から次々と受ける冷淡で無情な行為の積み重ねで追いつめられ、最後は悪の化身ジョーカーへ変貌するというのが映画の大まかなストーリーである。しかし、どうしても変貌した後の描写に違和感をおぼえるのである。

一人の人間が世の中や社会に絶望し、怒りや反発を示すようになるというのは、個人の境遇次第では充分にあり得ることだ。不遇な生い立ちにより極悪犯罪者や狂信者に陥ったなら、そういうこともあるよねと納得できる。しかし悪のカリスマとして持ち上げられるというのは理解しがたい。むしろそういった不幸な出来事を見せて変貌する理由をはっきりと描いているところが、ジョーカーとは結び付きにくいのだ。理由もなく理不尽に絶対的な悪として存在しているのがジョーカーたる所以でもある。

ゴッサムシティでは、貧富の差が拡大し貧困層の不満が渦巻いている。ジョーカー(アーサー)を支持するのはそういった社会に不満を持つ者たちであり、一様にピエロのマスクをしている。ピエロは破壊と無秩序の象徴として描かれており、ジョーカーの将来の手下にも繋がる。

しかし何故彼らは、ジョーカーを崇拝し支持するのだろうか?いくら社会に不満を持っているとはいえ、警察に捕まったジョーカーを命をかけて救いだすほどの希望を彼に感じたのであろうか?

彼らがジョーカーについて知っていることといえば、生放送のテレビ番組で社会に対する不満をぶちまけ、富裕層の象徴である人気司会者を射殺した、という事実だけだ。たとえ社会をメチャクチャにしてくれそうなカリスマであっても、この時点ではその能力があるのか分からない。通常であれば狂人として判断されるだろう。

リアル路線で進められてきたストーリーが最後になって、急に整合性に綻びがでるようにみえたのだ。このジョーカーは、ダークナイトのジョーカーとは違うとの意見もあるが、であれば別にわざわざジョーカーである必要もないのではと思ってしまう。

悪に対する見解

社会は秩序を求める

社会が不安定化すると現状に不満を持つ人々が、大きなうねりとなって秩序に対する脅威になりうる。時には不満が暴発することによって、破壊や無秩序に発展することもあるだろう。しかし多くの場合、不満を持つ人々は破壊や無秩序を求めているのではない。新しい秩序を求めているのだ。

破壊と無秩序を目的とする完全な「悪」の集団など現実的にほぼあり得ない。北斗の拳のように、チンピラが跋扈し暴力が支配する世界は、漫画だから成り立つ。仮に核戦争後に無秩序な世界が限定的にあったとしても、人々はすすんで社会の秩序を自ら創り上げていくはずだ。

何故なら人間の本質として、正義があってはじめて悪が成り立つからだ。秩序があるから無秩序が、美しさがあるから醜さがある。悪単体では存在し得ないのだ。人間の精神は、悪をポジティブに思い描けるようにできていない。どんなに悪行を積み重ねているようにみえる人でも、どこかしらで自分なりの正義を信じているのだ。そうでなければ、とっくに死を選んでいるだろう。

ヤクザやマフィアのような反社会的勢力も、社会の秩序を前提とした集団である。秩序の枠に収まりきらないものから利益を得ているからだ。さらに憂慮すべきなのは社会全体が悪に染まる時にある。一番恐ろしいのは、盲信された正義に覆われてしまった社会である。

悪の誕生

そのような例は歴史に枚挙にいとまがない。ポル・ポトは理想の原始共産主義社会を実現するため、自国民を180万人虐殺した。ヒトラー率いるナチスは、労働者、中産階級の救済を目的として民衆の支持を得たが、結果的に300万人のユダヤ人を虐殺した。背景には、その集団の(稚拙で醜悪であるが)正義が原動力となっていたのだ。

個人が行う悪行は、安っぽく狭量であるが、狂信に陥った正義が社会に伝染すると、とてつもない「悪」に発展する。正義を持たないジョーカーが社会性を帯びた悪に成就できるはずがなく、悪のカリスマに陥るという結末に矛盾を呈してしまっているように思える。

とはいえ、冒頭で述べたとおり「ジョーカー」の映画としての完成度は高い。妄想と現実が入り乱れた構成は観る者に様々な解釈を抱かせるおもしろさがあるし、音楽や色の使い方もスタイリッシュだ。そして、何よりもホアキン・フェニックスの演技が素晴らしい。アーサーには難しいキャラクター設定がなされていたが、笑う演技だけでその人となりを見事に表現していたと思う。

バットマンにおける最強のヴィラン(悪役)であるジョーカー。そのジョーカーの特徴の一つが不気味な高笑いである。ヒース・レジャーもホアキン・フェニックスも、笑いに特徴をつけることでそれぞれのジョーカーの本質を表している。そんな視点で映画を楽しんでみるのも面白い。

 

ホアキン・フェニックス  / ロバート・デ・ニーロ (2020/1)
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