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優秀な指導者
人の才能が開花するには、優秀な指導者が付いていることが多い。先日亡くなったマラソン指導者の小出義雄監督は数々の名選手を育て上げた。その指導法は、褒めて育てると言われているが、実際は選手の個性に合わせ、選手達が納得した上で最も効率的と思われる練習を課していたという。
その背景には、冷静で綿密な思考があったに違いない。人を指導するというのは大変な作業である。やる気を出させて、さらに結果を出しもらうには普段から地道な働きかけの連続が必要である。確固たる情熱と行動力が核となっていなければ、なかなか出来ることではない。
その指導方法が人によっては、単に厳しいだけのパワハラになってしまうのは残念なことだ。スポーツ界では、行き過ぎた指導がニュースになることがままある。いくら情熱を持っていたとしても、冷静な視点と感情を抑える自制心が備わっていないと、得てして独りよがりな指導に傾きがちである。
映画「セッション」
常軌を逸する指導
前置きが長くなったが、「セッション」についてである。この映画ではとんでもないパワハラ指導が描かれている。主人公は、名門音楽学校に通う学生ニーマン。偉大なジャズドラマーになることを夢見ている。そして、その指導にあたるのがフレッチャーという教師である。
フレッチャーは卓越した音楽的才能を持つ人物であると同時に、一流ミュージシャンを育てることに異常なまでこだわっている。その指導方法がとにかく凄まじい。次の動画で、その片鱗を見ることが出来る。
罵詈雑言を浴びせ闘争心を導き出す、と言えば聞こえはいい。しかしこれは指導でも何でもない。ただの暴力である。現実にこんな指導があったら100%否定したい。ただ映画の話しとはいえ、この指導が妙なリアリティーを持つのはそれなりの背景がある。
過酷な指導を生みだす背景
スポーツ界と同様に、音楽の世界もプロとして食っていけるのは、ほんの一握りの人だけである。優れた演奏技術を持つ人は世の中にはごまんといる。そんな中から抜きんでるには、技術だけではなく人脈や運などありとあらゆる機会を利用していかねばならない。ただでさえ少ないポストをものにするには、何が何でもスカウトする側の目に止めてもらうしかない。
ジャズミュージシャンの世界もそれは同じらしい。だから少しでもコンテストにでて自分を売り込む必要がある。誰を演奏メンバーに加えるか加えないか権限をもっている指導者は、生徒からすると絶対的な存在である。逆らえば全ての道は閉ざされる。そんな特殊な環境が、あの過剰な指導があり得ることに説得力を持たせるのである。
セッションのエンディング
ニーマンは子供の頃から夢だったジャズドラマーになるべく、必死にフレッチャーの指導に食らいついていく。「血の滲むような」という言葉があるが、文字通りスティックを握る手が血だらけになるまで特訓は続く。フレッチャーは、あの手この手で徹底的にニーマンを追い込む。ニーマンは、ガールフレンドを捨て、親戚付き合いにも背を向け、24時間365日すべてをドラムに捧げるようになる。その狂気に陥るさまは鬼気迫るものがある。
結局二人は衝突し、ニーマンは学校を退学になるのだが、最後のシーンでフレッチャーに一矢報いることになる。これを復讐といっていいかどうかわからないが、ニーマンにとって最高の瞬間だったに違いない。ラストの10分間は、映画の締めくくり方としては、とても見事だったと思う。
何の分野であれ世界のトップクラスでしのぎを削るには、想像を絶する訓練が必要であろう。その能力が開花する時は、その人自身が培ってきた礎を発射台として能力が放たれる。その発射台にたどり着くまで道筋は様々だ。
大抵のトッププロレベルの人には指導者がついているだろうが、世の中には小出監督のような名伯楽ばかりではない。フレッチャーのような指導は、僕のような凡人には到底理解できないし肯定するわけでもでもないが、どんな手段を使ってでもその高みに立ちたい、引き上げたいという執念を持つ人々の世界を少しだけ垣間見れた気がするのである。
余談
最後に、映画でもところどころで語られていた、ニーマンが敬愛する伝説のドラマー、バディ・リッチの動画を紹介したい。これを観ていると、とても人間技とは思えない演奏が次々と繰り出される。頂点を極めた人間というのは、はるか彼方の頂まで行ってしまうものだと痛感させられる。
ちなみにこのバディ・リッチ、学校で音楽を学んだことはなく、ほぼ独学でドラムの腕を磨いたという。天賦の才とは、過酷な指導者がいなくても開花するものなのか。世の中は、時としてかくも不条理なものである。