人の力量に任せる(日本の特色)

柄杓とじょうろ

道路に打ち水をする時、じょうろではなく柄杓を使うことが多いと思うが、あれってかなりテクニックが必要ではないだろうか。あまりビシャビシャにしてしまうと、水が蒸発しにくくなるので広く薄く撒くことがコツだ。じょうろで打ち水をしようとすると、その微妙な加減がいまいち取りにくい。

その反面、じょうろは繊細な作業にはむかないが、誰でも簡単に扱うことができる。植物への水遣り等、大量の水分を撒く時等に適している。正確なところはわからないが、じょうろは江戸時代にポルトガルから伝わったらしい。柄杓とじょうろ、用途によって使い分けるだろうが、水を撒く道具としては日本ではじょうろだけではなく柄杓も広く使用されてきた。扱いが難しく、じょうろという便利な道具があるにもかかわらずである。

日本文化(社会と言ってもいいが)の傾向として、何かしらのモノや仕組みがあるとして、それを扱う人々に使う技量を求められる場合が多い気がする。上記の例で言うと、じょうろは初めて使う人でも、ほぼ間違いなく水を撒ける設計になっているが、柄杓では人の技量がセットになって初めてそのモノが活かされるのである。

日本文化の傾向

例えば、洋服と和服でもその違いは一目瞭然である。洋服は、一目でかぶるなり羽織るなりの着方がわかるが、着物は位置を合わせたり帯の結び方等、かなりの手順を知らないと着ることができない。

もう一つの例として日本語を挙げたい。日本語は、同音異義語が多いため話す人が使いわけることが前提となっている。例えば「医師」「意思」や「企画」「規格」等は、読み方が同じだが意味が全く違う。また英語や中国語は文章内の言葉の順序が大切であり、動詞と名詞の位置を間違えると文として成り立たなくなる。それに対して日本語は、「てにをは」があるので縦横無尽に文章をひっくり返すことが出来る。柔軟度が高いが、そのかわり使いこなすのが難しい。日本語ネイティブなら何気なく話しているが、そうでない人が日本語を習得するのは難しいといわれる所以である。

傾向に気付く

人には癖があるように、人の集合体である社会にも、一定の方向に思考しがち、行動しがち、というような癖がある。そこに気付くことによって、自らを客観視することができるし、当然と思っていたことが実はそうでもないと思うこともできる。

日本は、海に囲まれた地理的な条件から、比較的、他文化との直接的な交流がなく、独自の文化を発展させることが出来た。そうすると同じ文化を共有する社会内では、お互い何を考えているか、ある程度察することができる。この位はわかるだろう、この位は出来るだろうという察する社会土壌が存在するのである。人には、ある程度この位の能力はあるという前提の上で、様々なモノや規範、ルールが決まっていく傾向があるように思える。

実際様々な社会保障制度についても同じことが言えないだろうか。大体において何かしらの制度は、非常に細かいルール(多くは官僚の作る政令、省令等)のもとに運営されている。それぞれの業界で、この位のルールは守れるし、実施出来るだろうという前提のもとで物事が進んでいく。そして国民側(現場で働いている人々)は、実際粛々とこなしてしまう。ただしルールが細分化されているので、こなすことが精一杯で、それぞれの業界内で制度自体が蛸壺化していく。そんなリスクも抱え込みやすいと思うのである。

運用が難しくても現場の適応力、吸収力で何とかこなしてしまう。もちろん、一つの文化的特徴であって良し悪しの判断はできない。ただし何か新しく物事をすすめる時や、何かを作り出す時にあたまの片隅に留めてもいい社会的特徴かもしれない。シンプルで誰でも使いやすいという原則は、世界規模でみるとやはり圧倒的に広まりやすいのである。じょうろが世界中で使われているように。

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