羅針盤と真理の追究
このシリーズで定義している「羅針盤」とは何か、今一度確認しておきたい。それは、人生を生きる上で指針となる考え方、のことを指す。前回の記事では、炎(生命)の中にある軸(羅針盤)を図示して、大まかな全体像をイメージしてもらった。その思考の全体像を、四角柱にみたててみたが、今回は四角柱の細部について説明を試みていきたい。
自分はどのように生きていくか、もしくは自分の生命をどのように使うか、という命題は、自分なりの正しさ、真理を追究するという態度に直結する。なぜなら自分が正しいと思っていることを実践していれば、その様は、自分らしく生きているといえるからだ。つまり、羅針盤に沿った状態にあるとは、常に正しい生き方を希求し日常を営むこと、が大原則となる。
では正しさとは何か?それは、人によって違うので、その内容について僕が提示することはできない。ただ、正しさや真理の求め方にはこういう考え方がある、ということを述べていくつもりである。
人の思考には、当然ネガティブな思考とポジティブな思考がある。ネガティブな思考としては、一般的に怒り、妬み、悲しみ、後悔等が思い当たる。逆にポジティブな思考としては、喜び、称賛、感謝、慈悲等の単語が頭に浮かぶであろう。しかし、これらの言葉は、思考というよりも人の感情やそれに近いものを表現しているといえる。
今回、俎上に載せたいのは、思考のありかたについてである。先に述べた四角柱を思考の全体像とするならば、四角柱の底面の部分がネガティブな思考を表現している(【図12】の赤い面)。

【図12】
今回は、このネガティブな側面を中心に論を展開してみる。
虚無と狂信
虚無について
ネガティブな思考を体現する言葉の一つとして「虚無」が挙げられる。虚無とは、次のように定義される。
1 何物もなく、むなしいこと。空虚。
2 この世に存在するすべてのものに価値や意味を認めないこと。
虚無の基本的な考え方は、正しさであったり真実の存在を認めない、ということだ。そもそも、羅針盤とは、自分にとって正しい生き方を探究するための道具となるものである。つまり羅針盤の存在意義を、真っ向から否定する考え方ともいえる。
世の中には、本質的な価値など何もないという立場は、ニヒリズムとも言われ、昔から一定の共鳴を得てきた。いや、むしろほとんどの人は、多かれ少なかれ、刹那的に虚無的な感情に襲われることがあるはずだ。
例えば、自分が一生懸命、築き上げてきた業績なり評判を、一瞬のうちに他者からの誹謗中傷に晒されたら、もしくは信頼していた相手から思いもよらぬ裏切りにあったら、一体自分は何のために頑張ってきたんだ、と虚しさに打ちひしがれるような場合である。
往々にしてこの世の中は、個人的な感情であったり、人間関係の力学で理不尽に物事が進んでいくことが、日常茶飯事にある。そんな現実を目の当たりにして、虚しさを感じるには想像に難くない。失恋、失職、いじめ等、個人の努力では如何ともし難い出来事は、残念であるが人生において枚挙にいとまがない。そういった経験が積み重なると感情の発露にとどまらず、自分を守るために虚無的な思考の闇に陥るリスクがある。
すなわち、なるべく物事に対して冷めた視点で眺め、距離をもった態度で接する、といった具合である。自分が物事に対して、真剣になればなるほど裏切られた時の精神的なダメージが大きい。であれば、初めから何にも思い入れを持たず、何事も無意味だという態度を決め込めばいい、という思考である。
正しさや真理などは何もない、とすれば、何らかの目的をもって行動するのは全く無意味、ということになる。何事につけ、世の中の事柄に対して価値を否定し、無関心を装う。「そんなことやったって意味がない」「適当にやり過ごそう」「結局何も変わらない」といった呟きを常套句に、日々をやり過ごす。
しかし虚無主義を標榜したまま生きる、というのは完全に自己矛盾を抱えた状態である。なぜなら、本当にすべての物事が無価値と信じるのであれば、その時点で迷いなく死を選ぶはずだからだ。生きるというのは、何かをしたい、と意識的であれ無意識であれ、そう願うからこそ生きるのである。その願望の中には、自分にとっての正しさを追い求めたい、という思いが入ってないはずがない。生きるとは、何かしらの価値を信じていると同義なのだ。
それに正しさや真理などは何もない、とするならば、その点において「虚無的な価値」を妄信している、ということになる。つまり、自分は真実にたどり着いたと思い込んでいる時点で、虚無主義と180度対立する立場、すなわち狂信に陥っているのだ。人は生きている限りにおいて、価値の選択という呪縛からは逃れられないのである。
狂信について
虚無と正反対の立場が、「狂信」となる。
冷静な判断力を失って、激しく信じ込むこと。
狂信に関しては、比較的イメージがしやすい。例えば、怪しげな宗教にはまっている人、偏狭なイデオロギーに凝り固まっている人などが思い浮かぶであろう。
彼(彼女)らは、何かしらの真理に到達したと思い込んでいるわけであるが、その真理なるものに、決して疑いが差し込まれる余地はない。狂信の最大の特徴は、反対意見を一切受け入れない、という点にある。往々にして、狂信者の言動はファナティック(熱狂的)なものになる。自らの信念のために自爆テロを決行する者などは、その最たる例である。
しかし、そのような過激な思想に染まらずとも、狂信的な思想は、普段我々が暮らしている日常にも転がっているのである。以前、職場で傍若無人にふるまう人々を、「トンデモ上司」と揶揄した記事を書いたことがある。
そういったトンデモ上司たちは、仕事上での一つの考え方(例えば、部下は上司に絶対服従しなければならない、仕事を完遂するために部下を罵倒するのは当然、等)に固執しているという点で狂信的である。
狂信とは、宗教や戦争のように非日常的な有り様だけを指すのではなく、常に日常の片隅に入り込む可能性を有している。その点は、虚無と何ら違わないのである。場合によっては、マインドコントロールのように狡猾にすり寄ってくることもある。そういう意味では、人は日常生活で狂信の刺激を、散発的に受けているとも言える。
その刺激は、狂信の内容に共鳴しない者からすれば、決して気持ちのいい体験ではない。現在のように価値が相対化している世の中では、狂信は忌避すべき対象として認識されがちである。
他者との軋轢、人間関係のトラブルは、大抵において狂信がもととなって引き起こされる場合が多い。規模が大きくなるにつれ、グループ同士、民族間の抗争へと広がり、最悪の場合、殺戮を含む多くの悲劇が繰り返されてきたのは、人類の歴史が証明するところである。
虚無と狂信の関係性
虚無と狂信の性質として共通して言えるのは、正しさや真理に対する姿勢が極端にすぎる、という点である。虚無は、真理を存在しないものとして扱い、狂信は真理を絶対のものと捉える。どちらもバランスを欠いた思考であり、図に表すとすれば、次のようになる(【図13】)。
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【図13】
思考に方向性があるとすれば、虚無と狂信、いずれも極端という意味において外側へ離れていく志向性をもつ。外側に遠く離れるほど、精神としての逸脱性を帯びてくる。
健全な思考を維持するには、両側にぶれることなく、ちょうど虚無と狂信の中間の位置に留まる必要がある(【図13】の青丸で示した箇所)。健全な思考とは、何かしらの正しさや真理を模索する過程で、その時取り得る最良の選択を、真理の仮説としてとりあえず受け入れるという姿勢である。
つまり、真理を不変のものとせず、あくまで仮説として改善の余地を残しておくことが狂信の否定につながり、同時に、今時点で自分自身が正しいと思うことを信じて受け入れるのが、虚無に陥らない態度となる。
衝動と打算
衝動について
虚無と狂信のほかに、正しさや真実を追求するにあたって、もう一つ重要な尺度がある。衝動と打算である。
「衝動」とは次のように定義される。
動作または行為を行おうとする抑えにくい内部的な欲求。
今回取り上げる衝動とは、ネガティブな思考の要素を含み、例として挙げれば、たまたまの気分、いきがかりの行動、思いつきの意見といったような、欲求のまま表出する一連の行為のことを指す。
衝動買いという言葉があるように、その時の気分を優先して、後先のことを考えずに突発的になされる行為である。衝動に身を任せると、その時々では、自分の中にたまっている鬱憤を発散できるので、一時的に気分が楽になるかもしれない。
しかし、虫の居所が悪いので、目の前にいる者を殴り倒す、腹が減ったので道端で座りこんで食事を始める、などと衝動的な行為を突きつめていくと、野生動物の行為と大して変わらないことが分かる。
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人間と動物の違いは、衝動を理性で抑えられる、という点にある。理性が働くのは、ひとえに人間が思考を記憶しているからである。気分や感情というのは、うつろいやすく本質的に安定はしない。何となく気分がすぐれない時もあるし、逆に高揚している時もある。そんな不確実なものに、行動の根拠を依存していたら、社会性が育まれず人生が破綻するのは目に見えている。
そうならないように人間は、時々の衝動を、記憶して頭の中の引き出しに分別しているのである。分別した記憶の断片を、かくかくしかじかの事情でそうなったと、理由付けをすることで、何とか行動の一貫性を保っているのだ。衝動自体だけでは、その不確実性を説明できないのである。
打算について
不確実性と、真逆の思考が「打算」である。
勘定すること。利害や損得を見積もること。
ここでいう打算とは、一切の衝動を排除しつつ、理屈をもって自分を利するような思考回路をいう。感情を慮らず、ひたすら冷静に物事を進める、という姿勢だが、そのために、機械的なテクニックや技術に重きをおく手法となる。技術は、論理、法律、自然科学の法則等、人類が築き上げてきた知識の総体をいう。
衝動的な行為は不確実性に包まれており、他者の理解を得ることが出来ない。なので人は、論理という技術を武器に他者の共感や理解を得る。いわば確実性を担保するために、法律や自然科学の法則といった技術の体系が形づけられてきたともいえる。技術は、社会の共通基盤なので、人同士の伝達の手段として活用される。
しかし、人としての感情を含まず、伝達の手法として技術を偏重したとしても、すぐに行き詰まりをみせるのは明白である。例えば「お役所的な対応」という言葉があるように、何事もルールや規則のみを盾に拒否をされても釈然としない、という具合である。正論を言われても、心がこもっていない対応をされれば、かえって感情的なしこりは残る。
むしろ昨今、話題となっているAIのほうが、機械的な作業であれば、人間よりよほど優秀なパフォーマンスを提供してくれるはずである。人が打算的な態度を徹底することに、大した価値は見いだせない時代になっている。言うまでもないが、人は機械とは違うのである。
逆説的だが、人が何かを価値あるものとして選ぶには、いくらかの不確実性(心が躍る、ワクワクする等)が期待されているのだ。合理的ではない判断が、共感を呼び起こすことは多々ある。打算だけでは、その壁を乗り越えることが出来ない。
衝動と打算の関係性
衝動と打算の関係性を図示すると次のようになる(【図14】)。
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【図14】
虚無と狂信と同じように、外側に向かうにつれ精神が逸脱し、社会からの疎外も進行する。すなわち衝動と打算の中間点に留まるのが最善策となる。
衝動的な欲求に身を任せず、かと言って打算の冷徹な態度を徹底するべくもなく、両者の中心でバランスを維持するのが、その人にとっての正しさに到達する最短距離となり得る。
底面の中心点
今までの議論をまとめたのが【図15】である。
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【図15】
四角柱の底面に、それぞれの対角線上に「虚無⇔狂信」「衝動⇔打算」の軸を当てはめる。そして両者が交わる青い中心点に正しさや真理を導くヒントが隠されているのである。
虚無、狂信、衝動、打算といったネガティブな思考に囚わず、バランスが取れた状態の時に、中心点から四角柱の上部へと押し上げる力が働く(【図16】の青の矢印)。その力がさらに四角柱を安定したものとするべく作用するのである。
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【図16】