人生の羅針盤(4)

中庸について

羅針盤に模した四角柱を眺めていると、「中庸(ちゅうよう)」という概念が頭をよぎることがある。「中庸」とは、一般的には儒教における徳の概念として知られている。「中庸」は、偏ることのない「中」をもって道をなすという意味である。

つまり、極端に多すぎたり、少なすぎたりというような偏りがなく、過不足がなく調和がとれている、というような状態をいう。中庸の概念を、僕も奥深く理解はしているわけではないが、決して物事の大小や上下の中間点、平均点を表すような単純な言葉ではないのは分かる。

同じような概念は、古今東西、世界の賢人と呼ばれる人々が唱えてきた。例えば、古代ギリシャのアリストテレスは、中庸は徳の中心概念であり、過大と過小の両極端を悪徳とし、徳は正しい中間(中庸)を発見してこれを選ぶこととしている。このように、古から広く提唱される概念は、それだけ真実を言い当てているからこそ、現代まで語り継がれているのだ。

中庸とは、部分部分をみて理解できるようなものではなく、物事の全体像を見渡しながら、より深くその意味合いをかみしめるようなものだと僕は理解している。全体を俯瞰し全体を受け入れる、その姿勢が中庸を理解する第一歩だと思うのだ。

今回のテーマの「羅針盤」の性質を表すとしたら、バランスや中間点というよりも「中庸」のほうがしっくりくるのである。そのために四角柱という図形を用いることで、より一層その性質を鮮明に示せる、と考えている。

ネガティブな思考の構造

もう一度、前回、最後に示した四角柱の図を確認してみたい(【図16】)。底面下面における中心部から、真っ直ぐ伸びている矢印が、自分なりの正しさ(あるいは真理と言いかえてもいい)を追い求める力を示している。

【図16】

正しさを希求する際には、とりあえずの仮説を信じるという姿勢を貫くしかない。ネガティブな思考の泥沼に陥っていないかぎり、生きている間は仮説を捨てては形成しなおす、というアップデートの作業が延々と続くのである。

仮説である以上、その仮説を構成している思考には、いくばくかの狂信、虚無、衝動、打算がそれぞれ含まれているはずである。ある仮説に自分自身を委ねる背景には、仮説を信じたいという思考がある(狂信)と同時に、仮説として認める、というのは疑いを抱いている思考でもある(虚無)。そして、仮説を選ぶ過程では、偶然の要素が備わっており(衝動)、他の仮説との比較において何かしらの理屈をもって選ばれたものでもある(打算)。

狂信と虚無の具体例

狂信と虚無について、もう少し具体的な例を挙げて説明してみよう。ある銀行員が顧客から一千万円を貸してほしい、と相談をもちかけられたとする。銀行員は、顧客所有の土地を担保にとって一千万を貸すことにした。銀行員になぜ一千万円を貸したのか?と質問すれば、期日までに貸した金が戻らなければ、担保の土地を競売にかけて回収すればいい、と答えが返ってきたとする。

土地を売って借金を回収できる保証はあるのか?とさらに質問したとしよう。すると裁判所が関わるから間違いはないと答える。裁判所が関わっていれば間違えない保証はあるのか?と続けて質問すれば、国の機関だから大丈夫だと答える・・・というように延々に質問を繰り返すことができる。

つまり、最終的には大丈夫だから大丈夫なんだ、と理由なしに信じざるを得ない場面に行き着く。そこには、狂信めいた側面があることを否定できない。しかし、100%断言できる予測など、自然科学の法則を除いて、この世に存在しない。もしかしたら、他国が攻めてきて占領され、国が機能不全に陥るかもしれない、もしかしたら、隕石が落ちてきて住んでいる都市が壊滅するかもしれない、そうなれば借金回収どころではないと、いかようにも考えられる。人の思考は無限に広がるので、可能性をゼロにすることは出来ないのである。

そうはいっても、すべての事柄を疑って実行を躊躇していたら、物事が一向に進まない現実につきあたる。本当は土地を所有していないのでは?、その顧客が詐欺師ではない証拠はあるのか?、などと疑いだしたらきりがない。大抵の場合、人はどこかの時点で折り合いをつけて信じるしかないと判断し、物事をすすめていくのだ。そのような行為の積み重ねで、人生が成り立っていると言っていい。

今はAという事実を信じているが、いずれは、より正しいと思われるÁダッシュを信じるかもしれない。信じてはいるものの、疑いをはらんでいるという時点で、どうしても虚無性からは逃れられない。それが、仮説を信じるという態度である。

衝動と打算の具体例

衝動と打算の関係についても、例を挙げて述べてみたい。家の中での、ある習慣について考えてみよう。基本的に日本人は、自宅では靴を脱いで過ごす。その行為は日本では常識だが、欧米では土足のまま入り込むのが一般的である。かといって欧米と同じように、自宅内で土足で暮らすようにと言われたら、多くの日本人は心理的抵抗を感じるはずである。

「家で靴を履かない」という価値観は、理屈で考えてそうしているというよりは、たまたま日本という国に生まれ育ったから、その習慣に慣れてしまっている、と言ったほうが近い。もちろん正しい正しくないという問題ではない。「なんとなくいやだ」という理屈では割り切れない違和感、つまり衝動の根本には偶然性が潜んでいる。

考えてみると自分たちの価値観とは、偶然の要素によって形作られたものが意外にも多いと気づく。例えば、豚肉を食すという行為も、イスラム圏の人々からすれば相容れない価値観となり得る。国や地域といった文化の違いは言うに及ばず、同じ地域で生まれ育った夫婦の間でさえ、価値観の相違というのはいくらでも生じる。些細なことでいえば、声掛けの仕方、洗濯物のたたみ方などに対する一人ひとりが感じる適切さは違うのである。

だからといって、すべての自分の価値観を他者に押し付けて生きていくには無理がある。そこは合理の力を持って他者に理解してもらう、もしくは自分自身を納得させて折り合いをつけていくのである。

例えば、海外に留学する必要があり、滞在時には現地でホームステイをしなければならないような事情があれば、留学経験などの得られるメリットと、屋内で靴を履く居心地の悪さといったデメリットを比較考量して判断する、といった思考である。それは打算による価値の選択、という側面を否定できない。

ポジティブな思考への変容

以上のように狂信、虚無、衝動、打算、四つの思考の平衡が保たれたポイントにおいて、自分なりの正しさを求める力が創出され、それが四角柱の上面を押し上げる力となる。

下面では逸脱性を帯びた4つの思考が、正しさを希求する力によって、健全性を宿すようになる。すなわち狂信は信仰に、虚無は懐疑に、衝動は感情に、打算は合理に、それぞれの性質がポジティブな思考に傾いていく。図で表すと次のようになる(【図17】)。四角柱の青い上面は、下面におけるネガティブ思考と対比してポジティブな思考を表している。

【図17】

ネガティブな思考が、それぞれが一元的に過剰な状態にあるのに対し、ポジティブな思考とは、全体が調和のとれた状態と言える。信仰とは、真理に疑いを内包しつつ信じる思考であり、懐疑とは、信仰を前提としつつ疑いをもつ思考である。そして感情は、合理性の範囲で発露され、合理は、感情を塗しつつ組み立てられる。4つの思考の調和は、まさに中庸を体現している状態、といっていい。

少し固い言葉で説明したが、言い換えれば、健全な思考とは、何かを信じてみたい(信仰)、何事も疑ってみる必要がある(懐疑)、自分を表現するには、感情をこめてみたい(感情)、分かってもらうために論理を必要とする(合理)という思考が同居しつつ、「正しさ」に向かう、ということである。

四角柱に模した羅針盤の上面が、上に押し上げられるほど、全体の枠が広がることになり、その分自分らしい生き方を歩みやすくなる。思考の幅が広がれば、柔軟に生命のエネルギーを、その四角柱の軸を中心に発散させることが出来るからである。

下面の思考を知る

一つここで確認しておきたいのは、羅針盤に対する考え方の落とし穴についてである。四角柱の上面は、調和の取れた思考を表しているのだから、その点だけに注力していればいいという思い込みである。例えば、狂信は信仰の過剰なのだから、狂信の存在を自分の意識から排除するような視点である。同じように虚無、衝動、打算にいたっても精神の逸脱を招くものとして、自分の思考にはそれらがないものとして振る舞う、といった姿勢である。

しかし、それは全体像をとらえていない考え方であり、中庸に反する発想である。人の思考の有り様として、ネガティブな思考、下面という土台があってポジティブな思考が成り立つのであって、上面単独での存在はあり得ない。図で表すと次のようになる(【図18】)。

【図18】

今まで見てきたように4つの思考の調和をもって正しさを希求しなければ、人の本質として、必然的に狂信、虚無、衝動、打算の落とし穴に、引きずりこまれる。引力によって物体が落ちるように、人為的に上に引き上げなければ、常に逸脱の落とし穴に陥るリスクを抱えているのだ。そうならないためにも、普段から中庸を保つ思考の訓練を重ねておく必要がある。つまり正しく生きるとは、常日頃のたゆみない思考の積み重ねによって、成り立っていると言える。

底面の対角線を伸ばす

ここで重要となるのは、四角柱全体のサイズを大きくするというイメージを持っておくことである。サイズを大きくするには、①底面の面積を広げる、②上下の縦の辺を長くする、この2点の動きが必要となる。

底面を大きくする動きは、とりもなおさず下面の対角線の長さを伸ばすことで達成される。下面の4つの頂点には、狂信、虚無、衝動、打算の思考がそれぞれ陣取っている。4つの頂点を外側に伸ばす力が加われば、下面の面積が広がる(【図19】)。狂信で言うと、狂信に陥った時の精神の状態をリアルに想像できればできるほど、狂信の位置する頂点が外側に移動する。すなわち狂信の様相を知る、ということが思考の幅を広げる結果となる。

【図19】

実際に狂信の闇に陥らなくても、どのような闇なのかを想像することはできる。幸いなことに人には想像力があるので、狂信の深い穴に入りこまなくても、その深淵を覗き込むことは出来る。狂信をなきものとして扱うか、いつ陥るか分からない人間の性(さが)として受け入れるか、その2つの姿勢には大きな隔たりがある

もちろん、怪しげな宗教にはまり洗脳がとけて脱退した、といったような経験があれば、狂信の恐ろしさを身をもって知るだろう。しかし、そのような体験を経ずとも、世の中には狂信に陥った人々の様々な歴史、記録であったり、経験をもとにした文学、映画等の芸術作品が多くある。あるいはそういう体験に陥った人々から、直接言葉を受け取ることが出来る。

それらの経験に触れることで、狂信のネガティブな力によって、どれだけの多くの悲劇がくりかえされ、どれだけ多くの怒りや悲しみを生み出してきたか、その様相を知り、多少なりとも闇に引き込まれるブレーキとなり得るのである。逆に、その闇を知らなければ、かえって気づかないうちに狂信の魔の手に取り込まれるリスクが高まる。無知のリスクは、それほどまでに恐ろしいのである。

同じように虚無を知ることで、どれだけの無気力無関心が生の意欲を削ぎ、様々な問題を放置してきたのか、衝動を知ることで、どれだけの理不尽な不幸を招いてきたのか、打算を知ることで、どれだけの熱意や感動が失われてきたのか、少なくても人間の暗部と向き合わざるを得ず、暗部を知るからこそ明るさを見いだそうとする動機にもなるのである。

少々過激な表現をすれば、人の本質の半分は悪魔が宿っているのだ。自分自身にも言えることだが、人には頑固さ、小心さ、狡猾さ、薄情さという性質が、べったりと染みついている。年輪を重ねていけばいくほど、それらの性質がはっきりと見えてくるのを実感する。

四角柱の縦の辺を伸ばす

しかし、そこで嫌気がさして思考をストップさせてしまっては、あまりにも不幸である。四角柱が上面だけでは存在しえないように、下面だけでも成り立たない。ネガティブな思考とポジティブな思考は表裏一体であり、お互いの思考があるから存在しているのである。

とはいえ、先ほどの述べたように、ポジティブな思考は微妙な調和の上に成り立っている上に、常日頃の思考の実践のみによって活性化する。四角柱の縦の辺が短いままの状態は、すなわち自分の正しさや真理を追究していないという意味において、人生の薄っぺらさを証明しているような状態である(【図20】)。

【図20】

人には悪魔が宿っている、という点のみに着目して絶望しても、それだけでは、半分の側面を見落としている。少なくても人は、信仰をもつことで希望を見いだし、懐疑をはさむことで試行錯誤を繰り返し、自分たちの理想を創り上げようと努力してきた。そして、その過程で感情を注いで、愛情や友情を育み、合理の力で、法律や科学などの体系を整備してきた

悪魔とは相反する天使のような面を人は持ち合わせている、と信じたい。大きな流れでいえば、ポジティブな思考を基に世の中は少しずつ変化しているように思える。その流れに自分も与したいと思うのは、自然な心持ちである。ネガティブな思考に陥ることなく、四角柱の縦の辺を上に伸ばす思考を怠らない。それが自分らしい生き方を模索する上で骨子となる作業なのだ(【図21】)。

【図21】

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