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羅針盤の効用
道具としての羅針盤
今回のシリーズにおいて、四角柱にみたてた羅針盤。その枠組みを理解していたとしても、魔法の如く人生が好転するわけではない。何をもって好転と呼ぶかは人それぞれの考え方があるだろうが、例えば、人間関係が楽になる、世の中で器用に立ち回れるようになる、自分の収入が増える、といった効用を期待しているとすれば、それは期待しない方が無難である。
思考の枠組みを僕なりに提示してみたが、仮に枠組みを頭で知ったとしても、それ自体が何か役立つと問われれば、そういった類いのものではない、と答えるしかない。
羅針盤とは道具である。道具は、使いこなす場面があってはじめて意味を成す。航海で使われる羅針盤には、方角という目盛りがある。今回提示した四角柱の各頂点にも、同じように思考という目盛りが付いている(【図17】)。

【図17】
そして辺の長さや面の大きさを自由自在に動かすことによって、より柔軟にそれぞれの思考が想像ができるよう説明を試みてきた。つまり、自分の思考を客観視する際に、その思考が全体のどの辺りに位置するのか、おおよその目安となり得るのである。
人生の様々な場面で、自分の中の羅針盤と照らし合わせ、思考の試行錯誤を繰り返し、そのことによって道具としての精度がさらに研ぎ澄まされていく。そのようなものとしてイメージしてほしい。
自分の人生を、どのように使い切るか、という命題には、好むと好まざるとにかかわらず、今まで述べてきたような思考の枠組みを行き来せざるを得ないというのが、今のところの僕の見解である。
思考の枠組みを整える
その人にとって正しい人生とは、その人固有の生まれ育った環境において、具体的な経験を積み重ねていって形作られるものである。言うまでもないが、その形は千差万別で何が正しくて間違っているか、などと他人には判断できない。
ただ言えるのは、思考をめぐらす過程において「狂信」「虚無」「衝動」「打算」の術中にはまっていないか、「信仰」「懐疑」「感情」「合理」を用いながら正しさを求めているか、という点は重要な目安として心に留めておきたい、と思うのである。
自分の人生経験を重ねていけば、羅針盤の精度が向上するかといえば、そうとも言い切れない。むしろ軸が定まっていない状態で経験を積み上げたとしても、いたずらに時が過ぎるだけ、ということになりかねない。経験を羅針盤のフィルターを通して解釈することで、どのような行動を今後の人生でとっていくのか、適切な判断材料として蓄積されていく。
しっかりとした軸を作り上げて、その枠組みに基づいて生命の炎を燃やす。そのことが正しく生きている実感をもたらす、と思うのである。
羅針盤を通して学べることは、人生の処方術でもなければ成功哲学でもない。自らの人生を振り返ったり、世の中の事象を見渡したり、困難な事柄に向かいあった時、思考の枠組みを整えてくれるものである。
羅針盤の尺度を用いた視点
間違えてはいけないのは、羅針盤を使って、簡単に他人を判断してわかったつもりになってしまうことである。むしろ、羅針盤をベースにした思考を重ねれば重ねるほど、人を理解するというのは一筋縄ではいかない、という思いを実感するはずである。
例えば「ボランティア」という言葉一つとってみても、その言葉の裏には様々な背景が読み取れるのである。ボランティアとは、自らの意志により(公共性の高い活動へ)参加する人のこと、またはその活動、を指す。
もちろんボランティア活動そのものは、決して非難されるような行為ではない。むしろ多くの場合、その行為によって人が助かっているというのも事実だろう。
しかし、そこに狂信性が含まれているかどうか、という視点も看過できない。例えばボランティア活動をしている当事者が、自らの行為を絶対的な「善」と解釈すれば、その活動に参加しない人々のことを「善ではない」と一方的に断罪してしまう危険性をはらむのである。
さらに言えば、怪しげな宗教であったり、偏狭なイデオロギーをもつ集団が、他者を勧誘するために、とっかかりにボランティア活動を隠れ蓑にしている場合も想定できる。
あまりにも自己の行為を美化したり正当化したりする言動には、何かしらの胡散臭さが付きまとう。そういった言動を嗅ぎ分ける嗅覚を身につけておくためには、普段から狂信の罠に陥らない思考を積み重ねる必要がある。
逆に、全てのボランティアを単なる偽善として斬り捨てるのも極端な態度と言える。ボランティア活動によって、助かった人がいるという事実があれば、当事者にとって、それはとても意義ある体験となり得る。
このブログでもいくつかの記事で論じているように、ボランティア的な活動をやってみようとする意思こそ、地域社会を活性化し、共同体の意識が芽生える源泉であり、数々の介護にまつわる諸問題の解決の糸口がある、という考え方も出来る。
それを、第三者が、偽善だ、自己満足だ、意味がない、などと嘆いてみても、それこそ意味のない無駄な行為に過ぎず、何ら建設的な進展を生み出さない。つまり「虚無」に陥っているかどうか、客観的な視点を持つことが重要なのである。
同じように「衝動」や「打算」にも、その罠に陥らないために注意が必要である。単なる好奇心や興味本位だけでボランティアに参加しようとしたり(衝動)、自分の印象をよく見せようとする裏心からくる動機であったりすれば(打算)、結果的に自分自身が納得できるような経験には結びつかない。
とはいえ、自分にとって本当に意義のある行為としてボランティアに身を投じるのであれば、何かしら人の役にたちたい、喜んでもらいたい、という気持ち(感情)が不可欠であろうし、何が本当に必要とされているか、相手の置かれている立場を理屈立てて想像(合理)した上で行動することが求められる。
このようにボランティア一つとっても、その関わり方、捉え方は人によって千差万別である。もちろんボランティアが、万人にとって正しい行為ということを述べているのではない。ただ、その背景には単純には判断できない思惑がひしめいている、ということを言いたいのである。自分の思惑でさえ的確に自覚するのは難しいのに、他人の行為を理解するのは、それこそ至難の業である。
ネガティブな思考に陥ったら
四角柱の容積を維持する
少しでも正しい理解や真理に近づきたいと思うのであれば、人生の様々な場面で羅針盤は尺度として使うことが出来る。ただし尺度としては使えるが、それを知っていたからといって自分がネガティブな思考に陥らないとは限らない。いや、むしろほぼ関係ないとさえ言える。
それほどまでに、日常生活の狭間には、ネガティブな思考が入り込む機会に満ちあふれている。狂信、虚無、衝動、打算にどっぷりと浸らずとも、多かれ少なかれそれらの思考が頭をよぎるのは、多くの人にとって日常茶飯事の出来事である。それは生きる上で、人としての宿痾といっていい。
そうであれば、ネガティブな思考に陥らないようにするというよりは、陥った時にどう考えるか、という点に注目したほうが実践的である。もう一度四角柱の図を見てみよう。

【図17】
まず四角柱の縦のライン(辺)を見てもらいたい。赤い底面の一端を担う「狂信」は、その垂直線上にある青い面の「信仰」が一元的に過剰になった思考である。同じように、「虚無」は「懐疑」が一元的に過剰になった思考、「打算」は「合理」、「衝動」は「感情」の、それぞれ一元的過剰な思考である。
ここで間違えてはならないのは、過剰になった思考を薄めようとする発想に走ってしまうことである。例えば、信仰の過剰状態である狂信は、信仰を薄めることでは矯正されないのである。むしろ、そうした行為は信仰というポジティブな思考の停滞をまねくことになる。
四角柱の構造をみれば明らかなように、縦のラインである四つの辺を上に押し上げない限り、四角柱全体の容積は大きくならない。容積が大きくならなければ、その範囲の中で自分の命の炎が充分に燃え上がることが出来ない。すなわち、自分らしく生をまっとうしにくくなる、ということになる。
ポジティブな思考をぶつける
「信仰」「懐疑」「感情」「合理」の思考を育てるべく、普段から意識的に考え行動する態度は、もちろん四角柱全体の容積を広げるという結果をもたらす。と同時に、ネガティブな思考に陥る防波堤としての役割も併せ持つ。
例えば狂信は、懐疑によってはじめて覚醒させられる。考え抜かれた懐疑であればあるほど、狂信の罠から抜け出せる可能性が高まる。
そして、虚無においては、懐疑を弱めることではなくて、強い信仰を相対させることによって、脱出をはかることが出来る。同じように衝動については、緻密な合理の力で抑えこめられ、打算については、熱意をもった感情によって癒されるのである。まとめると【図22】のようになる。

【図22】
向かって左側のポジティブな思考を、右側のネガティブな思考にぶつけることによって、それぞれ一元的に過剰に陥っていた状態を緩和させることが出来る。
ネガティブな思考に陥った場合、拠り所とすべきは、対角線の反対に位置するポジティブな思考である。図で表すと次のようになる(【図23】)。

【図23】
四角柱の内側に、筋交いのように四本の直線をそれぞれの頂点とつなぎ合わせた状態を表している。このような動線を意識しておくことで、ネガティブな思考の闇にとらわれそうになった時、そこから引き上げる力の手助けとなり得るのである。
この場合、四角柱の高さも重要な意味合いを持つ。重力の法則に従えば、ある物体が落下する時に、高さが高ければ高いほど落下時に他の物体への影響は大きくなる。そのように解釈すると、揺るぎないポジティブな思考を保持していれば、縦辺を長さを高く保っている状態と判断できる。
【図23】において二つの四角柱を比較してみると、縦の辺が短い左の四角柱よりも、辺が長い右の四角柱の方が、ポジティブな思考をネガティブな思考に打ち当たった時の威力が強くなるという具合である。

【図23】
四角柱の枠組みを強固にする
身体の血液の循環が、我々の健康に多大な影響を与えるように、四角柱の中で様々な思考が数多く交差し循環することで、思考の枠組としての骨組みがより強固となるのである。それは、自分らしい人生を生きるための安定した基盤となるだろう。

【図24】
【図24】において、今まで述べてきた思考の動きをまとめてみた。底面においては、ネガティブな思考の様相を知るという意味で対角線を伸ばすという動き(赤いマーカー部分)、縦の辺については、ポジティブな思考を希求するという意味で、上に伸ばすという動き(黄色いマーカー部分)を示している。
そして、内側の筋交い部分については、ネガティブな思考に陥った時に気づきを与えてくれるという意味で、ポジティブな思考をネガティブな思考に打ち当てるといった動きを表している(緑のマーカー部分)。この内側の動線は、四角柱の枠組みを維持できず、縮小したり歪なかたちに変形しそうな時に、それらの動きを踏みとどませる作用をもたらすものである。