人生の羅針盤(6)

今回のシリーズ全編を通して、人生の軸を組み立てるための思考の枠組みを提示してきた。その試みが、成功したかどうかは読者の判断に任せるほかない。ただ自分としては、文章を書き連ねたことで、自分の頭の中をそれなりに整理することが出来た。そういう意味において、僕自身にとっては意義のある挑戦だったと言える。

シリーズの冒頭において、僕は、どうして今回のような思考の枠組みについて記してみようと思ったのか、理由を二点挙げている。

一つは、昨今の情報が錯綜する社会では、数々の情報に惑わされることなく自分の軸を持つ重要性が増している、という点。もう一つは、現在の介護サービス業界において、サービスを実施する上で、人が生きるとはどういうことか、という包括的な視点が足りていないのではないか、という懸念である。

それらの点について、自分なりの見解を述べてこのシリーズの締めくくりとしたい。

Contents

情報社会の中で

思考が停止するリスク

一点目の論点であるが、まず、情報が洪水のように溢れている社会の中で、次から次へと押し寄せる情報に、無批判に躍らせられたり過剰に反応したり、といった現象が広がっているという事実を共有しておきたい。

コロナを巡る騒動ではっきりとその深刻さを露呈してしまった感があるが、背景にはメディアの煽りがあると同時に、SNS等のネット環境の急速な発展が影響しているのは明確だと思うのである。

何かを調べたい時にスマホやパソコンで検索すれば、今や大抵の事柄はネット上に情報が転がっている。こういった状況は確かに便利ではあるが、思考力を鍛えるという点からみれば、非常に危うい側面も持ち合わせている。

何が危ういかといえば、自分にとって都合の良い情報に簡単に到達できてしまう環境がである。メディアが発する情報や、ネット上に氾濫している情報は、多くの場合、意図的な主張が含まれており、いわゆるポジショントークに満ち溢れている。

多種多様な意見が表明されること自体は、何ら問題ではないのだが、情報の送り手と受け手側の間に思考が介在しないと、どうしても意見が一方通行になりがちである。

例えば、TwitterやFacebook等のSNS上でハッシュタグでキーワードを検索すると、同じような意見を持つ人たちと瞬時に結び付くことができてしまう。それは、人と人の出会いを生み出すという側面では、とても優れた機能と言える。

しかし、自分の望む情報や意見を無批判に強化してしまうリスクと隣り合わせでもある。危ういと思うのは、世の中の傾向として、ますます人に物事を深く考えさせないように向っているように見えることだ。

同じ意見や立場の人を増やしたいのであれば、小難しいことをいちいち議論するよりも、インパクトのある情報を印象に残るように、分かりやすく刺激的なメッセージを大量に発信するほうが効果的である。不安を煽ったり、敵を作って徹底的に批判したりすれば容易に注目を浴びることが出来る。

テレビのようなマスメディアは、まさにそのような性質を持った媒体であるし、さらに言えば、ネット社会の進展によって、SNSを利用して自ら情報を発信したり、情報を取りにいける環境に我々はどっぷりと浸かっているのである。

ネット上で主体的に情報を取りにいっているからといって、情報に振り回されていないとは言い切れない。自分にとって心地よい情報だけを選んで取りにいっているとしたら、逆に情報に踊らされているとも言えるのだ。むしろ主体的に考えている、と勘違いを招きやすい。それこそ狂信の罠にはまっていないと断言できるだろうか。

インターネットが便利であるということは疑うべくもないが、利用すれば当然ながら圧倒的な数の情報に触れる確率が高まる。否が応でも視界に入ってくる数多の情報や意見を、自分できちんと咀嚼しているかどうか、そこが他の意見に流されないための大きな分かれ目となる。そのためには情報に対する防波堤となる軸を持つ必要があり、軸の源泉が「思考の力」だと思うのである。

考える指針を持つ

「羅針盤」は、思考をどのように組み立ててめぐらせていくか、その目安となるものである。羅針盤にのっとれば、一度立ち止まって考えるという過程を踏まざるを得ない。だからこそ、自らの軸に踏みとどまって自分なりの解釈を加えた上で、意見を表明したり行動したりすることが重要なのだ。

ある意味、考えるという行為は面倒な作業である。自分なりの考えを熟成させるには、どうしても思考を逡巡させる時間が必要である。信仰と懐疑、もしくは感情と合理の狭間を行き来しながら、徐々に自分の意見を固めていく(【図21】)、その作業は根本的に非効率であり、検索して意見を求めるような行為とは真逆に位置する。

【図21】

便利さや効率性ばかりに目を向けていると、思考を巡らす過程をおろそかにしがちになる。なぜならば自分の想定できる範囲内で自分が理解できる情報だけを浴びていれば、簡単に快楽を享受できるからだ。人は想定していることしか理解ができない。「知っている」から理解が出来て心地がいいのだ。理解できない意見を、不快に響くからといって異質なものとして排除するならば、羅針盤など何も必要ないのである。

ただし、自分が理解の幅を広げようとする意識があるならば、試行錯誤の時間を要するだろうが、借り物ではない独自の輪郭を持った軸が着実に出来上がっていく。ひいては、結果として自分なりに納得できる人生につながっていくのではないか、と思うのである。

その試行錯誤の過程で、人生の中で積み重ねる経験は、軸をつくりあげていく上で絶好の素材となり得る。抽象化と具体化の項目でも述べたが、軸の土台の大きさを決定づけるのは、抽象化と具体化の思考の広がりである(【図7】【図9】)。

【図7】

【図9】

具体化の思考について言えば、各々の人生で積み上げた経験が重要なのは言うまでもない。本や文献から得る知見も重要だが、特に人との交流から得た経験則は、自分らしい軸を構成するには不可欠な要素である。

なぜなら、自分自身の性質であったり価値観などを形づけているのは、紛れもなく生まれてから現在までの周囲にいた人々とのやりとりの中で育まれてきたものだからである。

もちろん遺伝的要素も人間形成に多大な影響を受けるが、育ってきた環境面での影響は計り知れない。その経験が、自分らしさとの関連性がないわけがないのである。

そこで次の懸念点、介護の現場において、利用者がどのように生きていくか、という視点が抜け落ちているのではないか、という点について述べてみたい。

介護業界における人間観

ケアマネジャーの現場

僕自身が、介護業界に身をおいて20年以上経つが、利用者に対峙するにあたってサービスを実践する側の実力が、人によってだいぶ違うという印象を持っている。その違いの原因の多くが、自分自身の軸を持ち合わせているかどうかにかかっているように思える。

比較的、年齢が高くなればなるほど、そのような軸を持っている人が多いとの印象はある。しかし、それはあくまで傾向であって、若くても優れたケアを実践している人はいるし、長年経験を積んでいても機械的な対応であったり、機械的なケアしかできない人もいる。

その背景には、先ほど述べた人生における具体的な経験則をもとに軸を築き上げているかどうかが、実践者としての厚みに関係しているのではないか、と思うのである。僕が従事しているケアマネジャーという仕事を例にとって話しを展開してみよう。

ケアマネジャーは介護の専門家として、介護が必要になった人々の相談を受ける専門職である。必要に応じて介護保険のサービスだったり、市町村が提供するサービス、地域のボランティア等、ありとあらゆるサービスを調整し、実施まで結びつける役割を担う。

当然、その過程では〇〇デイサービス、□□ヘルパー事業所、△△民生委員等、具体的なサービス事業所等とのやりとりがあり、調整ができれば利用者の生活にサービスを落とし込むことになる。

ただその過程において、単にサービスをあてがえばいい、というわけにはいかないのである。利用者の訴えや意向は千差万別である。サービスを利用したいという意向であったとしても、実際に話しをよくよく聞いてみると、自分が置かれている状況に寄り添ってほしいだけ、ということだってあり得る。

利用者の意向を、そのまま形にすればいいというわけでもない。過剰なサービス提供が、かえって利用者の自立を阻害することもあり得る。つまりケアマネジャーは、利用者が自立した生活を送るためにはどうすればいいか、利用者の背景を含めて考慮し、見抜く力を養っておく必要がある。

そこには、人に対する深い洞察が求められるのは言うまでもない。利用者には長年、培ってきた生き方、そして生活のスタイルがある。それぞれの人生に異なった価値観があり、だからこそ抱いているニーズはその人固有のものになる。であれば、ケアマネジャーとして一律な対応であったり機械的な対応に終始することがいかに見当違いな態度であるかが分かるだろう。

ケアの実践

ケアマネジャーは専門家である。もちろん介護保険制度や地域の社会資源に精通していることが必要である。しかし、そういった知識を熟知していることだけを持って専門家とは言えないのである。人そのものに対する理解もしくは理解しようする気持ちなくして、ケアマネジャーの業務は成り立たない。

介護にかかわる専門職は、ケアマネジャーだけではない。介護職、看護職、リハビリ職、栄養士等、様々な職種が連携をとって利用者の生活を支える。シリーズの冒頭で「ケア」とは「気に掛ける」という意味合いを持つ言葉だと述べた。まさしく「ケア」をマネジメントするのがケアマネジャーであり、ケアマネジャーが作成する「ケア」プランに基づいて、各関係者が利用者に対して「ケア」を実践するのである。

僕が懸念するのは、人全体を包み込むような視点にもっと焦点を当てるべきではないか、という点である。介護の現場で、そのような視点が抜け落ちている、との意見をシリーズの冒頭で述べた。しかしよくよく考えてみると、その表現は正確ではない。

利用者に対して、幅広い人間理解の視点を持つ専門家は数多くいる。それは多くの場合、「気に掛ける」ケアを実践して、経験を積み重ねた結果、そのような潤沢な視点を持つに至ったはずである。

偉そうなことを長々と書いてきたが、実のところ僕よりも優れた「ケア」を実践している専門家は、僕の周りにたくさんいる。そして優秀な専門家は、例外なく自身の中に軸を築き上げているように見える。

ただ、残念なことに業界全体として、人間理解を通じた視点というのは表面に出てこない傾向がある。ともすれば、おむつ替えなり、入浴の手伝いといった介助の具体的な行為ばかりが目立ってしまうのである。僕が感じた懸念というのは、このような現実から端を発していたのだと思う。

軸を持った専門家は確実に世の中に多く存在しており、日々、利用者の生活の質(クオリティ・オブ・ライフ(QOL))に大きく寄与している。しかし、一人ひとりの実践が、個人の暗黙知として蓄積されている場合がほとんどなので、多くの場合、軸を共有化するという段階には進まないのである。

「暗黙知」とは、長年の経験やノウハウ、直感、勘やイメージといった経験的知識として語られる知識のことである。ナレッジマネジメントの世界では、「暗黙知」は、「形式知」(客観的にとらえることができ、かつ言葉や構造をもって説明、表現できる知識)と共に用いられることが多い。

言語化による気づき

今回、僕は自分が正しいと思う軸の作り方を、羅針盤と称して、それなりの分量を通して説明を試みてみた。図で表すと四角柱の形になったが、あくまで僕が考える羅針盤がそうなのであって、人によっては五角形だったり円柱だったりするかもしれないし、図形ではなく違うアプローチで表現するかもしれない。

提示した羅針盤の内容に関しては、文章にすると仰々しくなってしまうが、特にあれこれ考えなくても、人生経験から学んだ道理として普段から当たり前のように実践している人も数多くいるだろう。実のところ今回のテーマは、市井において常識的な考え方を、徹底して精緻に描き出しただけとも言えるのだ。

ただし、その当たり前の道理でも細かく論理的に文章に書き起こすことで、新たな気づきが生まれないだろうか?

ここで声を大にして言いたいのは、言葉にして表現する重要性である。個々の暗黙知をなるべく形式知に近づけるためには、言葉で共有化を図るしかない。言葉によって、はじめて他者に概念の内容を伝えることが出来るようになり、他者に伝わって初めて、その内容の多角的な検証が可能となる。多角的な検証が多く積み重なることで、その業界のバックボーンとしての哲学が熟成されていく。

介護の現場で足りていないのは、日々蓄積されている実践を、言語化する営みである。人の生活を「ケア」するには、人間理解なくして出来るはずがない。確かに人に対する理解といっても、人の行動や思考は不確定要素が多いし、曖昧な部分も大きい。言語化と口で言うのは簡単だが、慣れないとかなり面倒で難解な作業に感じるかもしれない。あえて言語化することに、それほど価値を見いだせないと思うかもしれない。しかし、言語化することによって、各段に理解の深度が深まるのも事実である。

ある種、職人芸のように個人の枠内で感覚的に「ケア」を実践してきたのが、介護業界の今までの実態である。それを、共有化して、普遍性があり応用可能な社会科学として発展させていくことが、今後の業界の課題と言える。

「人がどのように生きるか」という命題は、介護の現場において不可欠な視点である。であれば、その根本原理について普段から専門家同士でブラッシュアップを重ねておくことは、決して無駄ではないと思うのだ。

幸いなことに介護の現場では、豊富で具体的な経験の積み重ねがある。言語化とは、まさしく抽象化の中核となる行為である。抽象化と具体化の相互作用を繰り返すことによって、軸の土台を大きく広げられる。すなわち、人間理解を促す土壌が出来上がっていく。そこに介護の世界が発展する光明を見出しているのである。

羅針盤を人生で活用する

以上、人生の羅針盤を提示するに至った自分なりの意図を述べてみた。羅針盤そのものは、介護業界だけに通じる考え方ではなく、すべての人に当てはまる考え方として書いたつもりである。そして、人生の目的といったような固いテーマだけに当てはまるような指針でもない。自分の進路を決めるとき、所属する集団の方針を決めたい時、家族や友人と意見が割れたとき等々、場面場面に応じて羅針盤に照らし合わせながら思考をめぐらしてみてはどうだろうか。もちろん人によっては、羅針盤の内容について同意しかねるという意見の人もいるだろう。歩んできた人生が違うのだから、それも当然である。

自分は自分として、今時点の、頭の中のベースとなっている思考の方法を、できうる限り言語化して表現してみたい、という思いに駆られたのである。案の定、楽な作業ではなかったが、最後まで文章を読んでくれた人の中に何かしらの「気づき」があれば、充分に苦労した甲斐はあったのだと思う。羅針盤の内容が、少しでも自分らしい軸について考えるきっかけになってもらえれば、という願いを抱きつつ、今回のテーマに幕を下ろしたい。

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