
「令和」という元号が発表されて数日経った。普段、ニュースに興味ない人でも、元号が何になるのか気になった人は多いのでないだろうか?発表時に、新元号を知らせる号外を奪いとる人々のプチパニックな様子もテレビで流れていた。
それはともかく、平成から令和の移行期に身をおく中で改めて元号について考えてみた。一部の人を除いて、日本人の多くは皇室を普段、意識することはあまりないと思う。実際に日常生活に関係することといったら天皇誕生日が祝日くらいか?と思いきや、実は元号が物凄い影響を与えていたことに気づいた。
つまり、日常生活とは日付を中心に物事が進んでいくわけで、何をするにも日付がついてまわるのである。何か役所で申請するときはもちろん、普段の仕事で書類やパソコンに日付を記載(入力)するし、お店が定休日かどうかも曜日(日付)をもとに動いているし、人と約束するのも日付である。
意識するしないに関わらず、その都度、我々の深層には元号が刻みこまれていくわけである。そうすると元号によって、なんとなく時代のイメージが形成されていく。この映像は昭和っぽいねとか、あの子は平成生まれっぽいねとか、自然にイメージが共有されていくのである。
時代イメージが共有されると、それを前提に豊かなコンテンツ作品群が生まれる素地ができる。例えば、昭和歌謡曲集とか明治時代の歴史本等が考えられるし、言葉の表現としても多様性が生まれるのである(平成の歌姫等)。
これは日本に住んでいないと、なかなか分からない感覚である。新元号に対する日本人の注目度が高かったのは、それだけ生活に密着しているからである。人と人との間に共有できる社会資源は、その地の文化とも言える。
天皇は憲法上、象徴とされるが、その言葉のみでは正直、存在の実感がわきにくい。ただし元号という文化的遺産があることによって、しっかりと日本に根付いていると言える。
元号は明治以降に一世一元になったにすぎないとか、皇室は、時の為政者に利用されたにすぎない等といった意見をみかけるが、むしろ、紆余曲折を得て、時には影響力を変芸自在に変えつつ、1,000年以上も存続し続けた、その過程に僕は興味をもつ。
僕は右翼でも何でもないが、日本文化には天皇の存在をなくして語れないと思う。分析対象というと、おこがましいが、先人たちが維持してきた皇室という存在に敬意を払いつつ、令和時代にも考えを巡らせていきたい。