映画コンテイジョン
新型コロナウイルスとコンテイジョン
「コンテイジョン」という映画が2011年に公開されている。この映画では、新種のウイルスが全世界に広がり、パンデミックを引き起こすというストーリーが描かれている。ウイルスの発生源がコウモリ由来だったり、香港から全世界に広がったりと、今現実に起きている新型コロナウイルスを連想させるような設定が多いので、未来を予言していたような映画として紹介されていることもあるようだ。
しかし、内容をよくよく見ていると、映画で描かれているウイルスの性質は、現実のウイルス(COVID-19)とはだいぶ異なる。何せコンテイジョンのウイルスは、強い感染力で脳の組織を破壊するほどの強力な毒性を持ち、人を数日間で死に至らしめる。致死率は20%を超えるという非常に恐ろしいウイルスだ。当然、人々がパニックになり世界が混乱していく様子がストーリーの骨子となる。

現実の世界でパンデミックを目の当たりにしてしまうと、映画をみていて、いろいろと突っ込みたくなるシーンもでてくる。映画ではウイルスの謎を解明するためにWHOやCDC(アメリカ疾病予防管理センター)の職員が大活躍するが、現実には(WHOはそんなに頼りにならんぞー)とか、パニックになった民衆が食料を奪い合う暴動のシーンの時も、(そんな近くで飛沫飛ばして殴り合っていたら感染すんぞー)などと、ついつい余計なことを考えてしまうのである。
それはともかく、10年近い年月を経て改めて注目を集めている本作品、とても興味深いエピソードが満載である。その中で現実世界にも通じるのが、デマに踊らせられる人々の恐怖や焦り、そして滑稽さである。
恐怖はウイルスより早く伝染する
「コンテイジョン」では、ジュード・ロウが演じる無名のブロガーが、レンギョウという薬草がウイルスの特効薬であり、自分もこれで治ったとブログへ投稿し、一気に注目を集める。しかしこれが全くのデマ。にもかかわらず人々は、レンギョウを求めて薬局に行列を作り、品薄で手に入らないと知ると暴動を起こす。
ブログが注目され、承認欲求が満たされた彼は、どんどん行動をエスカレートする。「死者の数が増えすぎて手に負えないから、正確な数を隠蔽している」「CDCはワクチンで大もうけしようとしているから、レンギョウに効果がないと言っている」といった数々の陰謀論を唱える。世の中に感染者と不安が増えるのに比例して、ブログの読者も増加し、カリスマ性を帯びていく。
この内容を、現実の世界にいる我々は馬鹿にできるだろうか?この半年余りのコロナ騒ぎをみていると、様々なデマやいい加減な情報が飛び交い我々の行動に影響を与えている現状を目にしてきた。ウイルスは確かに脅威ではあるが、それよりも恐ろしいのは嘘やデマのよって煽られる人々の恐怖というマインドである。
まさに映画のキャッチコピーのように、「恐怖はウイルスより早く伝染する」のである。
インフォデミックと情報リテラシー
映画では、一人の男が情報を煽る役割を担っていたが、現実世界では情報拡散の仕組みがより巧妙である。誤った情報を流す人々は、あからさまな嘘は言わず、いかにももっともらしい意見を述べる。それが正しいと思って意見を発している人もいるだろうが、中には注目を浴びるためにあえて大げさに、もしくは嘘だと知りつつ事実と違うことを話す人もいるように思える。
特にウイルス拡散のように、誰もが感染のリスクがあるような事態になれば、人々の恐怖心を刺激し情報は容易に混乱する。マスコミがその混乱に乗じて、不安を煽るような情報を拡散されれば、行き着く先は「インフォデミック」である。
インフォデミックとは、ウェブ(とりわけソーシャルメディア)上で真偽不明の情報や虚偽の情報(フェイクニュース)が流布し、これを多くの人が真に受けてパニック状態となり、社会の動揺が引き起こされることである。
インフォデミックは、インフォメーション(information)とエピデミック(epidemic)からなるカバン語である。エピデミックは「感染症などの蔓延・流行の発生」を意味する語である。
上記の定義に従えば、インフォデミックとはウェブ上の情報源が発端となって引き起こされる現象のことをいう。確かにここ数年のSNS(交流サイト)の普及はすさまじく、一説によると2003年と比べて
現在の情報拡散力は68倍にもなっているらしい。以前とは比較にならないほど情報の渦に巻き込まれやすくなっており、だからこそ受け取る側に
情報リテラシーが必要とされているのである。
情報リテラシー(じょうほうリテラシー、information literacy)とは、情報 (information)と識字 (literacy) を合わせた言葉で、情報を自己の目的に適合するように使用できる能力のことである。(中略)また、"情報=IT"との連想やインターネットの利用時において情報リテラシーが要求される等の理由から、しばしばコンピュータ・リテラシーと混同される。しかし、(中略)本来必ずしもコンピュータと直結するものではなく、情報モラルと大きく同じ意味だと認識されている。
情報拡散力としては、ネットの力に及ばないとはいえ、他のメディアも依然として強い影響力を持つ。しかしマスメディアが冷静で客観的な報道をしているかといえば、全くそんなふうには見えないのである。なので今回は、インフォデミックをテレビ、新聞等を含めたメディア及びネットによる間違った情報が拡散されることによって社会に深刻な影響を及ぼすことと捉え、それに対する情報リテラシーをどのように培っていくか考えていくことにしたい。
新型コロナウイルスの特徴
2020年初頭に、新型コロナウイルスが蔓延し始めたころは、その感染力や病毒性について謎に包まれた部分も多く、慎重に対応せざるを得ない部分もあった。しかしウイルスの蔓延が半年以上に及ぶに至り、様々な事実が積み重なった今、このウイルスの特徴がだいぶ明らかになってきている。下にいくつかの特徴を列挙してみた。
①.感染者の大部分が、軽症あるいは無症状である。
②.若年層の死亡率は非常に低い。その反面、高齢者では死亡率が高い傾向がある。
③.糖尿病や心疾患の基礎疾患を抱えている者は、重症化しやすい傾向がある。
④.一般的には接触感染と飛沫感染で感染する。感染予防として三密状態を避けることが推奨されている。
⑤.東アジアでは、欧米ほど急速な感染爆発は起こっていない。
①、②については、2~3月の時点ですでに言われていた特徴であり、③、④、⑤についてもファクト(事実)からかなり明確に導き出せる特徴となっている。付け加えると、②若年層で軽症が多い事実や⑤東アジア地域では死者が少ない理由は、はっきりとした原因が分かっていない(様々な仮説は出ているが、確定した原因として認識が得られている状況ではない)。
いずれにしても、上記の特徴はある程度、共通理解として国民の中で認識されているといっていい。しかしながら、これらの特徴をもって、それをどう解釈するかは人によってだいぶ異なる。
例えば①の特徴をもって、多くの人は重症化しないのだからウイルスはそれほど脅威ではない、と考える人もいれば、逆に無症状が多いから気が付かないうちに感染が広がるリスクがあり不安だという人もいる。⑤の事実をもって、日本と欧米は生活様式が違うから感染爆発はおきようがない、とも解釈する人もいるし、外出の自粛制限をなくしたら欧米のようになると言う人もいる。
初めから結論ありきだと、両者のコンセンサスは得られようはずがない。求められるのは冷静な思考と判断である。僕は、新型コロナウイルスに対して不必要に怖がるべきではない、という立場である。もちろんこのウイルスの特性を踏まえた上で、感染予防として気を付けるべき点はあるだろう。ただし過剰な自粛や警戒はあまり意味がないと思っている。
その一番の理由が、先ほど述べたインフォデミックとしての要素が多分にあると理解しているからだ。特にテレビのようなメディアがたれ流す情報には胡散臭さが付きまとう。
メディアの報道
意見が偏る傾向
様々な意見の振り幅を表す指標として、横棒を一本想像してもらいたい。左端の値を0として、こちら側は「ウイルスを怖がる必要は全くない。感染予防もしなくていい」という意見だとする。反対に右端の値は100として「ウイルスを完全撲滅するまで安心できない。人との接触は一切禁止すべき。」という意見とする。
0や100のような両極端な意見は、大抵は感情的であり説得力を持たない。基本的には、40だったり60あたりを落としどころとして人は日々行動しているわけである。
しかしメディアの報道は、比較的右側、つまり不安を助長する意見に振りがちである。100だったら過激な意見と敬遠されるが、70や80あたりだと何となく説得力を持って、信じてしまうこともあるだろう。
ここで情報を提供する側の事情に想像を働かせてみたい。初めに断っておくが、僕はメディアの存在意義は充分価値があるものだと思っているし、普段からその恩恵にもあずかっている。ジャーナリズムの報道で多くの知見を得ることができたのは事実である。
ただし、メディアの多くが営利企業としての基盤を持つことも忘れてはならない。人々がどんな情報を欲しているか、という点については人一倍敏感であり、どんな情報に食らいつくか、という点に関して知り尽くしていると言っていい。そういう意味で「恐怖」という感情は、最も情報に対する人々の感情を刺激するのである。恐怖を煽れば煽るほど、売り上げ部数が伸びたり視聴率が稼げる事実がある。
ましてやSNSの影響力が非常に大きい時代である。メディアの情報がSNSを通じて拡散されることもあるし、SNSでバズっている真意不明の話題が、メディアで紹介されることも頻繁に起こっている(この場合、メディア側は非常に安上がりに番組や記事を制作できる。例えばトイレットペーパーを巡る騒動などはその一例である)。
専門家の意見
もう一つ注意しなければならないのは、専門家の存在である。今回の一連のコロナ騒動をめぐる報道で多くの医師や感染病学者がコメンテーターとして意見を述べている。ほとんどの専門家が良識をもって現場で仕事に取り組んでいるのは承知している。
本来であれば、正確に専門的に物事を伝えようとすれば、分かりにくくて、はっきりしない説明になりがちである。しかしそういった説明は一般受けしないのでメディアにとりあげられにくい。彼らはしゃべりのプロではないのだから仕方がないともいえるのだがそういう事情は考慮されない。
むしろ明快に注目を浴びるようなことを発言してくれる専門家に出演が求められる傾向にある。そもそも医師に関して言えば、リスクを高めに発言する立場にある職業である。体調が悪化するリスクを低く見積もって、実際に重症化したら後で発言の責任を問われかねない。と考えればリスクがあることを強調していう傾向があるということが前提として分かる。もっとも、そういった意見は身体の治癒を目指す医師として立場からの発言としては当然といえば当然と言える。
であれば違う土俵を持つ他の専門家(例えば経済や経営側からみた視点)の意見も同じくらい取り上げて議論を掘り下げてほしいが、あまりそういった観点からの報道はされない。メディアに頻繁に取り上げられるような専門家は、メディアが注目されるような意見(つまり不安やリスクを強調する分かりやすい意見)をあえて意識して発言しているのではと想定できる。そうすれば自分たちの虚栄心を満たせるし、収入だって得られる。専門家とはいえ、信用に値しない人はたくさんいるのだ。
もちろん信頼できる情報もたくさんある。ただしこれだけ情報があふれかえっていると、玉石混交で何が正しい情報なのか判断に迷いが生じる。判断や思考を放棄すると、情報の発信力の大きさであったり、分かりやすく聞き心地がいい情報に、脳が徐々に侵食されていく。行き着く先は「コロナ怖い恐ろしい」のコロナ脳の完成である。
そうならないためにも、情報リテラシーは自分を守る能力として、ますます重要度が高くなっているといえるだろう。では情報リテラシーを高めるためにはどうしたらいいだろうか?
一つは、能動的にデータを見ること。もう一つは自分なりの哲学(今回の場合は、自分なりの死生観とでも言おうか)を持つこと。この二つが重要なポイントとなってくると思うのである。次回以降、そのあたりについて述べていきたい。
出演 マット・デイモン, ジュード・ロウ, ローレンス・フィッシュバーン(2012/9/5)