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とある哲学者との対話
フランス在住の作家、辻仁成が自身のブログでこんな記事を書いている。
辻と南アフリカ人の哲学者アドリアン、2人が新型コロナウイルスついて対話した内容を、記したものだ。4月11日の記事なので、まさにフランスではロックダウン最中の会話ということになる。このウイルスにはかかりたくない、という辻に対してアドリアンは真面目な顔をして、自分は逆に早く罹ってしまいたいと言う。
「いずれ罹るなら、早めに罹って、抗体を持ちたい。問題は重症化するかどうかだ。80%の人間は軽症で済むし、想像するに、無症状がほとんどなんだ。感染者数なんかあてになるものか、何倍も感染者はいる。重症化するのは65歳以上が全体の70%だ。俺は63歳だから、ぎりぎりセーフってことになる」
アドリアンは、コロナで多くの死者がでているが、フランスの総人口からすれば決して多くはないし、他の病気で死ぬ人のほうが圧倒的に多いと語る。
「コロナだけが病気じゃない。その中に自分が入る確率はどのくらいだと思う? っていうか、いつか俺もお前も死ぬんだ。ほとんどの人が無症状で終えているのがcovid19の正体だ。なんで、こんなにバカみたいに広まってるのかって言うと、こいつは新種のウイルスだから誰も抗体を持ってない。だから集団免疫がないせいで、物凄い速度で感染してしまう。(中略)絶対に罹りたくないなら、無人島に行くしかない。核戦争下のシェルターに逃げ込むような感じにならなきゃならない。この俺が、そんな生活できると思うか?出来ない。マスクをするのでさえも嫌なんだ。」
そして、重症化するリスクは認めつつも、そうならない可能性のほうが圧倒的に高いとしたうえで次のように話す。
「だから俺は、早めに罹ってだな、軽症程度で潜り抜け、抗体を獲得し、早めにこの精神的な苦難から逃げ出したいんだよ。俺にとっては罹ることより、毎日、家の中でじっとしていることの方が命を脅かしている。そういう人間も大勢いるんだ。政府はとっととこういう封鎖をやめて、みんなに感染させるべきだ。集団免疫を持つしか、人類がこのウイルスに勝つ方法はないんだよ。」
心が壊れてまで生き残りたくはない、とアドリアンの主張は一貫している。彼の根底には、どうやって生きていきたいか、という哲学が常に居座っているのだろう。
アドリアンの死生観
僕は、彼の考えにかなりの部分で共感を覚える。4月といえば、欧州では日本の数百倍の死者を出すほどに、ウイルスが猛威をふるっていた時期である。そんな状況下で、このような意見を堂々と表明するには、しっかりとした死生観をもちあわせていないと難しい。
僕も彼と似たよう意見だといっても、コロナ騒動が始まって一年近く経っているので様々なデータを精査することが出来たからだ。同じ状況下で、彼のような意見を持てたかといえば正直怪しい。日本とフランスでは全く状況が違う中で、彼が周りの情報の洪水に飲み込まれずに自分の意志を表明している姿は、人としての尊厳を感じるのだ。意見が違ったとしても、きっとそう感じただろう。
アドリアンも自身の意見の根拠として、生死の確率を挙げている。もちろんそれは意見の大きな柱だが、やはり根底には、生きている間は人間らしく生き、それが出来なくなったら寿命として受け入れる、という確固たる死生観が流れているように思える。
リスクの捉え方と生き方
生きていれば、さまざまなリスクに遭遇する。病気にかかるリスクはもちろん、道端を歩いていたって事故に遭うリスクがある。それをすべて回避できると捉えるのは妄想にすぎない。だとすれば、ウイルス感染のリスクだけに目を奪われていいわけがないのである。
何もウイルスに対して無警戒でいい、と言っているのでない。感染防止に配慮するべきところは配慮する。一つ一つのリスクを比較考量しながら、社会の全体を勘案し、リスクを取捨選択して生きる、という常識的な態度をとればいい。それを新型コロナウイルスに対しては、ゼロリスクを目指そうとするから社会がおかしな方向へ向かってしまう。
結局は、自分の人生でリスクをどのように捉えているか、どのように生きるか、という根本的な価値観に行き着く。単に自粛すべきだ、いや自粛は意味ないと意見を戦わせても、お互いの歩み寄りは難しい。
自粛論への反論
今一度考えてみたい。ウイルスを恐れている根拠は何だろう。そこかしこに蔓延している恐怖を煽る情報ではないだろうか。恐怖心は感情的な反応を呼び起こす。だから僕は、ひたすら自粛やら行動制限を推し進めようとする意見には強い違和感を持つ。
今だって刻々と感染者が増えている!感染が今以上に拡大するかもしれないではないか!
確かに、現時点では陽性者数や死亡者数は増えている。でもそれらの数値に対して、1日1日の報道に反応するのではなく、検査者数、重症者数、入院者数等も視野に入れて、一定期間の傾向をふまえて判断すべきだ。
今、患者が増えているからといって、季節的に冬には風邪をはじめとして多くの疾病が増加するという、当たり前の事実があることも忘れてはならない。
日本が欧米のようにならないという確証はあるのか!
このウイルスによる致死率は、地域によって全く違う。今のところ一番、確実性がある因子が地域である。欧米のように致死率が高い地域は高く、東アジアのように低い地域は低い。自然界に起こっている事象に確証などない。可能性の高低があるだけである。今までの傾向をみると、地域のリスク差が変動する可能性は非常に低い。逆に日本が欧米のようになる、という根拠はなんなのであろうか?
新型コロナウイルスの性質は未知数である。どう変異するか分からないし、分からないものに対して警戒するのか当然だ!
では一体「分かる」というのは、どういう状態を指すのか?旧コロナウイルスを含めて、風邪ウイルスやインフルエンザウイルスの性質が全て解明されているかといえば、そうではない。インフルエンザは治療薬があるのに、年間3,000人以上が亡くなっている。ワクチンの効果も6~7割程度である。
分からないということが不安なら、不安なんて作り出そうと思えばいくらでも作り出せる。
感染者が増えることによって、医療現場が疲弊している。医療崩壊が起きないように、なるべく人と会うのを控えて感染を防止するべきだ!
感染拡大に余念がないのは結構だが、医療リソースの柔軟な運用にもっと目を向けてみてはどうか。県境をまたいだ患者の受け入れ、コロナ病棟で働く医療スタッフには給料以上の手当てを毎月支給、二類感染症の指定を解除しインフルエンザと同等の五類感染症の指定等、運用面で検討できることは多くある。「コロナ対策」という特別な枠をつくっているがために、かえって医療現場が疲弊しているのではないか?
飲食、観光、宿泊、芸能、文化、音楽などの業界に多大な損失を負わせる政策と、医療業界に資金やリソースをつぎ込んで治療のキャパシティを増やす政策、どちらが社会全体でみて被害が少ないのか、もっと検証されてしかるべきである。
自粛によって売り上げが減るなら、政府が補償すればいい!とにかく今は、人の往来を減らすことが最優先だ!
いくら補償があろうとも、失った損失が穴埋めされるだけである。消費や投資にお金がまわらなければ、お金が循環しないので、売上が減り、さらには収入が減り、人々の生活を直撃する。人々の消費マインドが冷え込むことが、経済にとって一番のリスクなのだ。
大不況になれば、それこそ失業者があふれ自殺率が跳ね上がり、治安が悪くなって犯罪率も増加する。経済の停滞は、人命や安全な生活に多大な影響を与えるのである。
死生観について
バランスをとった視点
いろいろと述べてきたが、感情に押し流されると、どうしても感染が拡大する可能性ばかりに目が向いてしまうようだ。繰り返すが、僕は感染防止対策が全く無意味だと言っているのではない。特に病院内や高齢者施設では、クラスター防止のため厳重な感染対策が必要だと思う。僕はただ、あまりにも一元的な見方は、それはそれで他の危険を呼び込むから、もっとバランスをとった視点を持ちましょう、と言っているのだ。
極度な感染防止を声高に訴える人の裏に透けて見えるのは、責任を回避しようとする欺瞞と死生観の欠如である。「新型コロナウイルスと情報リテラシー(1)」 で述べたように、マスメディア、特にテレビが流す情報は感染リスクを強調する意見が大半を占める。
そのよう主張しておけば、感染が爆発的に広まった場合、我々の言っていたとおりになった、と言えるし、そうならなかった場合でも我々が注意喚起したおかげで、この程度の被害ですんだ、と言える。どちらにせよ自分たちは正しいことを主張したという逃げ道を確保できる。
死生観の欠如
僕は強い覚悟をもって感染防止を徹底するという意見であれば、それは一つの尊重すべき態度だと思うのだ。例えば、経済が破綻しても、自殺者が増えても、高齢者や基礎疾患を持つ人の命を守ることが最優先される。それは社会として追及すべき価値感だからで、その理由は○○〇だからだ・・・と、確固たる価値観に基づいた意見であれば、是非拝聴したいと思っているのだ。
その意見の根底には、その人なりの人間観があり、客観的な事実を踏まえた上での主張であれば、全く相入れない意見であったとしても、主張に対しては理解ができる気がするのだ。自身の意見に対して誠実さが感じられるからである。
それに対して、感染防止は徹底しろ、なおかつ人々の生活に支障のないように対策しろ、というのは都合が良すぎる意見だ。現実的な具体策も示さず、ただ批判だけするなら誰でもできる。大抵の場合、そういういいとこ取りの主張は中身がないから信頼に値しない。
生きるというのは、ただ生き永らえることが目的なのだろうか?動物ならそうかもしれない。しかし人間は動物とは違う。様々なことを考え、創り出し、様々な感情をもって、楽しみ、悲しみ、感銘を受ける。そういうところに生の意味を見いだす。多くの場合、文化活動がその担い手となるし、文化は人間存在の証明でもある。経済活動の縮小は、文化を衰退させ、人間として生きる環境を著しく棄損することにも直結する。
自由と責任
そして、自分らしく生きるということは、自分で判断してリスクを背負いながら生きるということでもある。他人の意見に乗っかっていると、逆に自分の人生を蔑ろにされるリスクを招き寄せることになる。
社会との関わりでいうと、個人の自由を制限される危険性にも繋がってくる。僕たちが普段、当たり前のように外出する自由、意見を表明する自由、人と会う自由等、それらの行為は人類の先人たちが血みどろの戦いを経て勝ち取ってきた権利のはずだ。今もって、それらの権利が認められていない国も存在している。
自由というのは、当たり前のようで実は危ういバランスの上に成り立っている状態だ。だからこそ自由の制限には慎重になるべきだし、その判断を安易に他人に預けていいような軽いものではない。
感染被害が欧米とは全く違うということがかなり明確になった今の段階でも、緊急事態宣言を発令すべきだ、という声は根強い(緊急事態宣言「再発令すべき」高まる世論)。それは、外出制限や休業強要の同調圧力を生むし、限りなく他人に判断を手渡さざるを得なくなる状況を作る。
日本人は他人に迷惑をかけたくない、という意識が強いためか、自分が罹ってしまうよりも他人にうつしてしまうから、家族や会社に迷惑がかかるから、という理由で行動を制限している側面がかなりあるように思う。でもその前に、実際の感染リスクがどのくらいの確率なのか、自分で調べて判断することが必要だ。残念ながら、あまりにも意図的な情報が社会にはあふれかえっている。
もちろん、自らが媒体となってウイルスを他人に感染させる可能性はある。しかし、それも含めてのリスクなのだ。感染させたとしても、自分だけが背負いこむ責任なのだろうか。それは、社会全体で背負う責任ではないのか。社会で暮らす人々が、人間らしく精一杯生きる環境を提供できるのか、その責任も含めてである。
銀の玉にみる人生
コロナをめぐる騒動を通じて、一つの物語が脳裏に浮かんだ。星新一のショートショート『処刑』(「ようこそ地球さん」に収録)という作品である。
遠い未来の世界。この物語は、死刑囚の男が片手に銀の玉をもって、砂漠のような惑星をさまよう、という内容である。
処刑地である赤い惑星は、大気中の酸素が薄く湿度も極めて少ないため、受刑者は耐えがたい渇きに襲われる。そのため、この星で生きるために、銀の玉を一つ与えられる。玉の上部にあるボタンを押せば、反対側の底にはめられたコップに、大気中から強力に凝縮された水がためられ、それを飲めば喉の渇きを癒すことができる。
さらには、各地で回収できる赤いカプセルをその水に溶かせば、クリーム状の食料になる。水はボタンを押すかぎり何度でも出る。これを繰り返してさえいれば、受刑者は命を保てるという仕組みだ。赤い惑星で銀の玉を失うことは、すなわち死を意味している。
と同時に、この銀の玉は、処刑の道具でもある。ある回数以上ボタンが押されると、内部の超小型爆弾が爆発し、受刑者は周囲もろとも吹き飛ばされる。その爆発までの回数は、決して誰にも知らされない。
爆発するかもしれないという、極限の恐怖に耐えてボタンを押せば、喉の渇きを一瞬は癒すことができる。しかしひとときを過ぎれば、また耐えがたいほどの渇きに襲われるのだ。
ボタンを押し続けることは、爆発までのリミットを早めることを意味する。受刑者が生きている限り、強烈な渇きと爆発の恐怖が永遠に繰り返され、極限状態で葛藤しながら、ボタンを押して日々を食いつなぐ。それがこの時代の処刑だった。
‣情報に惑わされないためには、能動的にデータを調べる力と、自分なりの死生観を持つことが重要である。