本当に国にお金はないのか?(3)

レンズとしてのMMT

前回の記事ではMMTの概略を説明した。財政赤字を容認する、この理論に対して違和感を覚える人がいるかもしれない。しかし、これまで見てきたようにMMTの理論的な土台は「意見」ではなく、「事実」を元に構築されている。

MMTは、偏った思想ではなく、現実の経済をみるレンズに似ている(実際、そのように例えるMMT派の経済学者は多い)。貨幣とは、どういうものなのか理解を深めることで、別の視点で経済を俯瞰できる。その視点を得ることで、経済のオペレーションについて、よりよい議論につなげられるのである。

考えてみれば当たり前だが、貨幣は自然発生的に市中から発生するのではない。まず政府が貨幣を供給し、その後に国民が様々な経済活動で貨幣を活用し、結果的にモノやサービスが潤う。政府は、国民が増やした資産から税を徴収する。税の目的は、貨幣に流通の信用力を持たせるためである。政府は、国民の経済や社会活動が安心して行えるように様々な環境を整備する。財源として税も使うが、足りなければ自ら貨幣を供給することができる。こうやってお金を循環させながら国の経済力が発展していくのである。

上記の事実からすると、政府の負債を家計と同じようにとらえることが、いかにナンセンスな発想かがわかる。貨幣(自国通貨)を供給する立場の政府が、債務不履行に陥るリスクなどないので、税収で財源が足りなくなるという理屈は成り立たない。日本でデフォルトは考えられないというのは、前々回の記事でも述べたとおり財務省も認めている見解である。

財政破綻という不安感

繰り返すが財政破綻は日本では、ほぼ起こり得ない。もっとも政府が財政破綻を引き起こすという強い意思を持てば話しは別である。無税国家にして財政支出を制限なく拡大し、強権的に企業活動をストップさせて供給能力を奪い、ハイパーインフレによる財政破綻を引き起こし経済的な壊滅状態に陥れることは可能である。しかしさすがに現実的にはありえないだろう。

ありえないことを前提にして不安を煽るのは建設的ではない。国の借金は国民1人あたり〇〇万というようなメッセージがいつまでも流布されているのは何か別の思惑がある、と考える方が自然である。

国の借金を増やすと財政破綻する、増税をしなければ将来の社会保障は立ち行かなくなる、というスローガンはイメージしやすく分かりやすい。分かりやすいがゆえに無意識に信じ込まされてしまう

僕が一番懸念するのは、MMTのような斬新な発想を否定することで思考停止に陥ってしまうリスクである。レンズであるMMTを活用することで、むしろ別の可能性を探る道が開けると思うのである。プライマリーバランス一辺倒な考え方では、お金がないという大前提の前に何事も守りの姿勢になってしまいがちである。

プライマリーバランス 文教、医療・福祉、公共事業、外交・防衛などにかかる行政費用を、借金せずに、税収などの歳入だけでどの程度まかなえているかを示す指標。国の場合、国債などで調達した資金を除いた歳入(税収・税外収入)から、国債の元利払い費を除いた歳出を差し引いて計算する。つまり借金の影響を考慮せずに、単年度の収支均衡がとれているかどうかを示す。基礎的財政収支ともよばれるほか、英語の頭文字からPBと略されることもある。

MMTに対するイメージ

僕は、緊縮財政に風穴を開けるアンチテーゼとしてMMTがもっと活用されていいと思っているのだが、一般的にこの考え方はまだまだ市民権を得ていない印象を持っている。MMTの考え方は、レッテル貼りをされやすいという特徴もある。

財務省の官僚、大企業の経営者、投資家、主流経済学者、政府御用達のエコノミストというような人たちの多くがMMTに批判を浴びせるのは分かる。その人達の思惑だったり、立場、意地、プライド等々があるだろうから、そういう意見になるのはそうだろうなと思う。

ただし、経済通ではない一般人からすれば、MMTが主張する内容に対して違和感を覚えるのは、当然といえば当然なのである。実をいうと僕も、つい半年くらい前までは国にお金がないということを前提に物事を考えてきた。振り返ると世の中に蔓延している常識にとらわれていたと思う。そういった思い込みを助長するような常識だったり通念をいくつか述べてみたい。

政府部門の効率化

非効率な部門を容赦なくカットすることで経済が成長するという思い込みは根強い。この考え方は企業経営なら、あながち間違いではない。固定費を低く抑えて、なるべく無駄な支出を減らす努力をするのは一般的な経営手法である。

ただし、政府の支出をこの手法と同じよう考えてしまうと経済全体としては悪影響がでる。デフレ環境下では需要を喚起することが、最も重要な政策となる。なぜなら民間企業や個人は、お金の価値が高くなっているため、できるだけ支出を抑えるようと行動するからである。それは間違った行動ではなく、合理的な判断として多くの場合そうせざるを得ないのである。であれば唯一、積極的に財政支出をして需要を喚起できる存在は政府しかいない。具体的にいえば、公共事業や公務員の数を増やすような政策が求められる。

一般的な心情としては、国民が無駄を削るように日々努力しているのに、政府だけが身を削らないのは許せないという意見になりがちである。実際、公務員の数を減らせ、無駄なハコモノをつくるな、といった意見は世間受けがいい。もちろん無駄な建物をつくる必要はないし、公共投資の中身は精査したほうがいいだろう。ただし財政赤字を気にして歳出を減らす政策は、需要の冷え込みを助長するリスクが高い。

公務員の数をいたずらに減らしたところで何の解決にもならない。逆に総数として失業者が増えたら、失業保険、生活保護等で社会全体で負担する額は増加するだけである。

政府部門を大きくする、公務員を増やす、公共投資を増やす、無駄な公共投資であってもならないよりはまし、というのがデフレ時のMMTをベースにした政策の考え方になる。しかしこのような考え方は、政府だけが特別扱いされるのは許されない!というふうに心情として印象が悪いので、なかなか賛同を得られないという背景がある。

イデオロギーとの関連

緊縮財政にに対する具体的な対抗案として、大幅な減税が挙げられる。もちろん減税は、デフレ脱却に有効であり、特に消費税は平たくいえば消費に対する罰金なので、需要を喚起しようと思えば消費税率を下げる、もしくは撤廃するというのは、それなりに合理的な政策といえるのだ。

消費税に関しては、一部の野党、例えば共産党あたりが税率を下げるよう今までも主張してきた。しかし論法としては、消費税減税のかわりに大企業や富裕層に課税するという政策を掲げており、財源を税に頼るという面では、その主張はMMTとは根本的に考え方が異なる。表面の主張だけみると、共産党と同じことを言っているので、その時点で違和感を覚える人がいるかもしれない。別に共産党が悪いわけではないが、どうしても万年野党の主張は、現実味のない空論に聞こえてしまう場合が多いのである。

MMTは特定のイデオロギーと結びついているわけではない。例えば、政府の支出を社会保障の拡充に使うことも出来るし、イージス艦等の軍備拡張に使うことも出来る。どの分野に予算を投入するかは、別の論点である。

ポピュリズムを連想

もうひとつ誤解されがちなのは、MMTは必ずしも政府の負債を推奨しているわけではなく、場面に応じて、政府が財源にとらわれず財政出動を行う必要があると言っているのである。

注視すべきは、負債残高「額」ではなく、実体経済のほうだ。いわば貨幣という血流が、実態経済という身体に、適切な量で流れているかどうかが最も重要な点なのだ。つまり国内の供給能力に見合った貨幣の流通量というのが重要な視点であり、今の日本の現状は、供給能力を使いこなせていない需要の少なさに焦点を当てるべきとなる。

現時点では、国債を大量に刷ってでも財政出動をして需要喚起を行う優先順位が高い、ということである。しかし公共事業の拡大、所得補償、補助金の拡充等という政策は、ある種のポピュリズム(大衆迎合主義)を連想させてしまう。そうすると制限なくお金をジャブジャブと使うなんて無責任だ!という、いささか的外れな批判になりやすい。

世の中そんなに甘い話しはない、という不文律は一定の説得力を持つ。MMTは決して無制限の歳出を認めているわけではない(インフレ率という財政制約については、前回述べたとおり)が、人気取りのために現実味のない主張をしているのではないか、という警戒感を呼び起こす。これも国の財源が足りない、という思い込みがまねく副産物である。

インフレーションに対する考え方

MMTに対する、最も大きな懸念がインフレを招くのではないか、という点である。財政出動を行うということになれば、市場には大量のマネーが供給されるのでインフレリスクは高まる。インフレを抑制できるかどうか、この論点の違いがMMTを許容できるかどうかの大きなポイントになっているように思える。

MMTを推進する立場からは、インフレリスクが高まった場合には、財政出動を停止したり増税することで抑制できるとしている。

逆に財政出動を批判する立場からは、大衆迎合的なバラマキ政策は、インフレ懸念が発生した場合でも、国民の反対によって簡単にはやめられない、減税についても然りでインフレには歯止めがかからない、という意見がある。

戦前日本との比較

この点について、よく例えに挙げられるのが戦前の日本である。1920年代の日本経済は、世界恐慌や関東大震災の影響で極めて深刻なデフレに陥っていたが、満州事変直後に就任した高橋是清大蔵大臣は、大規模な積極財政を行い経済を復活させた。いわゆる「高橋財政」は、今、議論されているMMTと状況が似ている。

高橋氏はインフレの兆候がみえた場合は、財政出動を停止すると言っていたが、戦線を拡大していた軍部からは予算拡大の圧力がかかり国民もこうした路線を強く支持していた。結局、2.26事件で高橋氏は暗殺され、その後日本は日中戦争、太平洋戦争への道を歩むことになる。当然、莫大な戦費がかかり最終的に国家予算の280倍の費用をすべて日銀の直接引き受けで賄った。結果、戦後の経済は過度なインフレによる混乱を招いた。

戦前と今では、制度や価値観も全然違うと一蹴するのは簡単である。しかし、大きな政府や公共部門に対する不信感や財政規律の法的根拠(財政法4条)はルーツを探ると、こういった過去の歴史の反省、反動であったりする。

財政法第4条第1項
国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない。但し、公共事業費、出資金及び貸付金の財源については、国会の議決を経た金額の範囲内で、公債を発行し又は借入金をなすことができる。

人に対する信頼感

こうなると、経済政策論というよりは、むしろ人に対する考え方、人間観の相違によるところが大きいように思える。

社会全体の利益のために、人々は適切な行動をとることができるのだろうか?それともやはり自分の利益のみに固執するのだろうか?そう思っていなくても周りの意見に合わせてしまうのだろうか?同じようなことを繰り返してしまうのだろうか?それとも少しずつでも良い方向に軌道修正ができているのだろうか?

結局は根底にある人に対する信頼感の違いに行き着く。政府といっても人の集合体である。もちろん人は愚かな行為をする生き物である。ただし人に対する警戒心が強すぎて、何も変化をせず現状を悪化させるのも問題である。リスクはある事は承知しつつも可能性を信じる道を進むのも大切だと思うのである。

もちろん政策については、いろいろな考え方があっていいと思う。ただ前提となる事実に誤解があっては、正しい認識にたどりつかない。

経済の源泉となる貨幣。MMTは、その貨幣について今までの常識とは違った見方を提供してくれる。思い込みから一度自由になって、本当に日本はお金が足りない状況にあるのか、改めて考えてみるのも悪くない。

MMTについては、なるべく間違いがないように注意して記述したつもりだが、なにぶん僕は経済については素人なので、誤った解釈があるかもしれない。僕が参考にした文献をいくつか挙げておくので、興味がある方は判断材料の一つとしてご検討いただきたい。

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