生命力の源

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生命力の源

小さな子どもを観ていると、生命力に満ち溢れているのがわかる。職場の近くの公園に、よく保育園児が保育士たちに引率されて遊びに来る。子どもたちはいつでも声を張り上げて遊びに夢中になっているし、園児の動きをみているとやたらと走りまわるので面白い。ちょっとした距離なのになぜ走る?と不思議なくらいにエネルギーに満ちている。

それがいつのまにか、人生が進むにつれだんだんと動きが鈍くなってくる。大人になると日常生活で走ることは滅多になくなり、高齢期になると動くこと自体が億劫になりがちである。自分で身体を思うように動かせなくなると、介護が必要になる。こればっかりは自然の摂理なので仕方がないことである。

電池と炎

人は誰でも生まれた時から生命力を持ち合わせていて、それを一生をかけて使いきる。身体の動きだけで考えると、エネルギー源は電池に近いかもしれない。何かしらの電化製品やおもちゃ等に新しい電池を入れると勢いよく動き出す。その反面、電池が残り少なくなると時々動きが止まるようになる。まるでお年寄りの動作のようである。

確かに人には何かしらのエネルギー源がある。生命エネルギーと言うと何だか怪しげにきこえるが、人の全ての活動の源になっている何かがある。そう考えないと人がなぜ自分らしく生きようとするのか、上手く説明がつかない。

僕が思うに、そのエネルギー源は、人としての活動、例えば仕事、遊び、家事をするにあたって消費されるし、それに伴うストレスや喜怒哀楽の感情表現にも消費される。身体の能動的な動きはもちろん、動いていない時の基礎代謝にも消費されている。

こういったエネルギー源があると仮定すると、やはり電池という例えは正確ではない。電池だとある一定の電力量がもともと決まっていて、それがだんだんと減っていくだけである。もちろん人によって単一電池だったり単四電池であったりエネルギーの総量が違うことはあるが、もっとエネルギーの増減に流動性があるように思えるのだ。

そう考えると、エネルギー源は電池というより「炎」に近いものであろう。炎であれば、強く燃える時もあれば弱々しく燃える時もある。一定の強さを長期間保つこともあるし、短い期間に激しく変動することもある。そして焚き火のように徐々に小さく消えていく炎もあれば、ロウソクのようにフッと消える炎もある。

炎を燃やす

自分の炎と薪の色を知る

言ってしまえば、人生とはそのエネルギーを燃やし尽くす過程である。そして誰もが自分らしく炎を燃やしたいと心の底では思っている。燃えるというのは別に熱血漢のように生きることとも違う。淡々と過ごすことに幸せを感じ、そのように生きているならば、それは自分らしく炎を燃やしているのである。

例えば大きな舞台で活躍したいという人もいるだろうし、誰かを支えて暮らしたいと考える人もいるだろう。自分の家族や友人たちと楽しくつつましく暮らせればそれで満足だという人も、もちろんいるだろう。その生き方を他人から非難される筋合いはないし、そのような人生を心から望んでいて最後までそう過ごせたのならばそれこそ完璧な人生である。

世の中にはインフルエンサーという人たちがいて、一部の有名ブロガー、YouTuber、起業家等が、今までにない稼ぎ方をして自分たちに続けとばかりに、新しい稼ぎ方&生き方をしたほうがいいと煽っていることがある。自分たちのエネルギーをこんなにも自分らしく燃やせているよ、と誇らしげにアピールしながら。

しかし自分らしく炎が燃えるためには、どのような燃え方をするかだとか、どういう環境で燃えやすいのか、という前提が人それぞれ全然違うと思うのだ。

組織の中で多数の人と協力しながら仕事をすすめるのが得意な人もいるだろうし、自分で会社を立ち上げて先頭に立って物事をこなすのが得意な人もいる。何かを一から創り上げたいという人もいるし、他の人が創ったルールの上で力を発揮する人もいる。

もう一度炎の比喩で考えてみたい。炎には様々な色があるとする。そして同じ色の薪をくべると勢いよく燃えるとしよう。色を自分の特質とすれば、炎が勢いよく燃えるには何色の炎にするか、何色の薪を選ぶのか、という視点が重要になってくる。例えば自分が青い特質をもっているとすれば、わざわざ赤い炎を無理して燃やさなくても青い炎を燃やせばいいし、青い炎が燃えやすい青い薪をくべれば(環境に身をおけば)いいと思うのである。青い炎を燃やすなら、別に無理をして赤や黄色の薪を使わなくてもいいのだ。

話が抽象的になってしまったが、人によって何を基軸に判断するかはそれぞれ重要視する視点が違うので、このような表現をあえてさせてもらった。

自分の基軸は何か

基軸については、それこそいろんな尺度が想定できる。自分で新しい価値を生み出したいのか?立場や環境の違う人たちと関わりたいのか?そうだとすればその人たちにどうような影響を及ぼしたいのか?それともなるべく変化なくすごしたいのか?そして、そのような生き方をするためにはどのような職場に勤めればいいのか?それとも自分で仕事をつくってしまえばいいのか?そもそも働く必要があるのか?どの程度のお金が必要なのか?

大事なのは、このように様々な尺度をもって自分の基軸を見つめなおし、何色の炎を燃やしたいのか意識しておくことである。そして一番わかりやすい判断基準は、心の中の炎がどれだけ勢いよく燃えているかどうか感じてみることである。それは自分自身にしかわからないし、他人が決められることではない。

もちろん誰もが自分の思い通りに生きることが出来ていないのは百も承知である。だからといって端から何もかも諦めて現状を受け入れなくてはいけないわけであるまい。別に仕事を変えた方がいいとか、何でも好きなことをしてみろ、と言うつもりはない。それまでの人生の蓄積を捨てるようなマネはしなくて済むなら、しないほうがいいとすら思う。

しかしである。自分の炎が自分らしく燃えているフリをしてはいないか?自分には燃える炎など持ち合わせていないと思い込んでいるフリをしていないか?もし、そうだとしたら、もう一度心の底を覗いてみるのも悪くないと思うのだ。人生は1回きりだし、やり直しはきかない。誰もが自分の炎を持ち合わせているはずである。

炎を絶やさないために

仕事だけではなく、人生のパートナーを決めたり、遊びの活動を始める時等もエネルギー源は同じである。すべての活動の源は「炎」にある。仕事やプライベートでストレスや疲労が溜まると、炎も弱々しくなる。病気やストレスの治癒力も炎の力が影響している。そうなると体力や気力が回復できないまま、さらに生命力の炎は弱まり悪循環に陥る。

仕事だから割り切ってプライベートだけ充実させればいいと思っていても、エネルギーの根源は同じところにあるので、結局はプライベートで何かしようにも、仕事で疲弊していれば活力が出てこない。なので今は何色の炎になっているだろう、薪が何色でどの位くべているだろう等、炎の燃え方には普段から常に注意を向けておくのが大切だと思うのだ。

最後に炎を絶やさないために、どうような視点に気を付けていけばいいのか、自分なりの意見を述べておきたい。

第一に、人の環境は多かれ少なかれ社会状況の影響を受けるということである。人と同じように社会も常に変動している。求められる能力であったり、良しとされる価値観は時代とともに変化する。なので社会背景によっては炎を燃やしやすいか燃やしづらいかの違いはある。社会の前提条件は受け入れながらも、自分の炎にフィットする場を探すか、居心地の悪さを感じたら、違う社会に身を投じるのも一つの手である。

第二に、子どもの頃に好きだったことや得意だったことに立ち返ってみることである。冒頭で述べたように子どもは真っさらな状態で自然に好きなことにエネルギーを割いている。年齢を重ねるにつれ、様々な心理的な制限が積み重なり、自分が自然に出来ていたことを忘れてしまう。子どもの頃のニュートラルな状態を思い起こせば、意外にもヒントが隠されているように思う。

第三に、同じ色の炎を燃やしている人にアプローチしてみることである。一番炎が力強く燃えるのは、炎同士が共鳴する時である。自分と似た炎を持つ人に会えば、共鳴できる可能性が高まる。複数の炎が交わると、一気に炎の勢いが増すように、より強いエネルギー源が自然に湧き出てくるようになる。

 

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