社会を事例検討する

腑に落ちる感覚

人相手の仕事をしてると、問題点を探る手法として、事例検討を行うことが多い。僕は介護の仕事に携わっているが、何人かの専門職が集まって、その対象者のバックグラウンドについて話し合い、何かいい解決法がないか、あれこれと検討する機会がよくある。

専門職がかかわるといっても劇的な解決法がそうそうあるわけでもなく、大抵は大きな進展もなく事態を見守ることにしましょう、となる場合が多い。それでも事例検討をする意義があるすれば、自分なりに納得する答えとして、腑に落ちる感覚を得ることだと思っている。

自分一人でケースに対処していると、どうしても視点が騙りがちだが、多数の人の意見を聞くことで、なるほどそういう視点もあるものか、と違う視点を自分の中に取り込むことができる。それは取りも直さず新しい自分が再構築されることである。その結果、相手との関わりの中で、何かしらの変化を相手側にもたらすかもしれないし、事態を打開する突破口が出現するかもしれないのだ。

人は腑に落ちる感覚がないと変わらない。少なくとも、自分の中の信じていた仮説が別の仮説に変化することで、初めて行動に結び付く。

社会とアセスメント

アセスメントという切り口

事例を丹念見ていく際に、ただ漠然と見るのではなく、通常は一定の手法に則って情報を集め、分析した上で検討がなされる。それが「アセスメント」と呼ばれる手法だが、要するに「人」に対する見立てにあたる。このアセスメントが見当違いな見立てだったりすると、その後のケアが的外れになる可能性が大きくなる。なので事例検討では、実際にその見立てがより事実を反映している見立てなのかを、意見を述べ合うことになる。

優秀な専門家は、アセスメントを行う際、その人の表面上だけの情報だけではなく、その人の考え方、周りで関わっている人、どのような過去を経てきたか等の情報をもとに、その人の全体像を構築していく。

そして、全体像の基となる活きた情報は、対象者と信頼関係があって初めて得られることが多い。なので基本的には、アセスメントの精度をあげるには時間をかけて情報を積み上げていくことになる。

社会はアセスメントの宝庫

とはいえ、実際のところ対人援助技術というのは、職業としての技術だから、実施するための何かしらの根拠であったり、業務の成果が求められているはずである。仕事には時間的な制約があるし、現実的に決められた枠内でできる範囲のことを実施するしかないと思う。

それに、事例検討では個人(とその家族)を対象とするため、個人情報の絡みもありオープンに検討するわけにもいかない。どうしても検討する関係者はかぎられてしまう。

そこで思ったのが「社会」を事例検討してみたらどうだろうか、という視点である。社会といっても、◯◯市◯◯地区について詳しく掘り下げてみようということではなく、社会そのものを対象にするのである。僕が注目したいのは、社会がその構成員の生活をどのように保障するか、という視点である。そして、その仕組みがどのようにして成り立ってきたのか、社会そのもののバックグランドを探ってみたいのである。

制度が出来上がった経緯には政治的な力学や経済事業があり、さらにその背景は文化的な視点、地政学的な視点、生物学的な視点等で分析ができると考える。対象となるのは、同じような価値感を共有している社会ということになろうか。同じ枠組みの制度や文化を共有する社会を対象としたいが、それは「国」と同義ということでもない(もちろん、ほぼ同じ場合もあるだろうが)。

こうなると、もはや事例検討と呼べるかわからないが、介護という社会保障の一端を担う分野に身を置いている者として言わせてもらえれば、社会について腑に落ちる感覚を持つことは、決して無駄にはならないはずだと思うのである。もし社会に対する閉塞感があるのだとすれば、何も変わらないという諦めがあるからではないか、何か新しい視点を自分の中に持てれば何かが変わるきっかけになるかもしれない。自分たちは、すでにある制度や環境の条件の中で暮らさないといけないわけではない。少なくても疑問を呈したり、考えたりすることは自由である。そして、それはきっと面白いことだろうと思うのである。

潜在意識の重要性

人の行動原理を説明するとき、下のような図を用いられることがある。要するに表にでてくる行動は、海中に沈む氷河のような潜在意識の影響を色濃く受ける、という人間の心理を表現したものである。


確かに人は、理屈では割り切れない行動を日常的にとってしまう。原因がはっきり分かればいいのだが理由がわからず理不尽な言動をとってしまうことは、普段から見聞きするし、自分自身も思い当たる節は多い。だからこそ、潜在意識による何かしらの影響力を受けるとの説明は、かなりの説得力を持つ。

その潜在意識は、過去の経験が積み重なって蓄積されていることは明らかであるが、さらにいうとその人が生まれる前から延々と引き継がれてきたDNAも多かれ少なかれ影響を与えているに違いない。人固有の性格や能力は、先天的、後天的いずれにしても、意識的に操作できない巨大な潜在意識というブラックボックスに左右される。

事例検討では、しばしばこの潜在意識にあたる部分に光を当てていくことがある。医者ではないので当然診断はできないし、心理士が専門的に行う分析とも違う。明確に「潜在意識」を対象としているわけではない。ただ対象者が何か社会との接点で、うまく交差できないとき、表に出てくる言動だけで判断しては、どうしてもうまく説明できないことがある。無理矢理強引に理由づけてしまうと何となくモヤモヤした気持ちが残る。それは腑に落ちる感覚がないということも出来る。そんな時、その人のバックグラウンドを探って、より腑に落ちる仮説を探し当てるわけである。

社会における潜在意識

同じような理屈で、社会にも潜在意識に相当する背景があるはずである。社会制度、法律で構築された数々の世の中の仕組みは、我々が認識できるものである。人権という概念があると仮定し、その思想を基に各種制度が存在しているが、それがいわば社会の顕在意識とも言える。国会、裁判所、役所全てが、このシステムを維持するために、時には改良を重ねるために膨大な制度を作り上げてきた。しかし、その根底には、脈々と受け継がれてきた目に見えない何かが流れていると思うのである。

上の図は、社会の意識ー潜在意識に当たる部分を簡単に表示したものである。いろいろな分類の仕方はあると思うが、目に見えて実際に意識的に変更することが出来る「制度」を上部構造とし、その下部構造として3つ階層を示してみた。下にいけば行くほど根源的な背景を表している。「制度」そのものは、当然ながら、いきなり創られるわけではなく、文化的な背景をもって創られる。文化は、社会構成員の行動様式、生活様式の総体を言うから、そのような文化を持つに至った歴史的背景も重要な視点となる。

様々な文化が熟成された経緯を見ると、地理的な影響を間違いなく受けている。地球上でたまたま、この位置に存在しているからこそ、このような文化が出来上がったとも言える。例えば、寒暖差の有無や陸続きの地域が大きかったのか、海上で隔てられいたのか、天然資源が多かったのか、近くに強大な社会構成体があったのか等々、その文化は、地理的な条件を強烈に受けざるをえない。

さらにいうと、生物としての「人間」そのものの成り立ちが、最下層の背景として挙げられる。全ての人類が持つ逃れられない宿命みたいなもので、生物学的な視点である。社会や文化は、極めて人間的な営みの集大成だが、人は人間である前に生物であることを覚えておきたい。

このように深く掘り下げてみると、考える余地は無限に広がっている。分析対象としては、大海原に飛び出すような感覚で何から手をつけていいかわからないが、少しずつ整理できればいいと思っている。楽しみながら様々な仮説を展開してみたい。



 

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