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社会保障制度に対する合理的無知
合理的無知とは
このテーマの記事を書いていて、途中書き足したいことが次から次へとでてくるので、最初に想定していた内容とだいぶ違ってきた。当初は「政治と社会保障制度」という題名にしていたが、読み返してみるとどうもしっくりこない。なので表題のように題名を変更した。
考えていると政治だけで説明できるようなテーマではなく、様々な要因が絡み合っていることに改めて気付く。自分としては現状を嘆いて将来に憂いを抱くことを主眼としたのではない。根が深い問題だからこそ、思考を巡らす価値がある。自分が一番提示したいのは、将来に繋がる道筋である。
社会保障制度が、多くの国民にとって馴染みが薄い制度なのは今まで述べてきた事情による。複雑であるし、普通に生活していたらあまり関わることもない。ここで一つの意思表示として「合理的無知」という選択を考えてみたい(この考え方は、社会保障制度の現状と問題点をわかりやすくまとめた「教養としての社会保障」という本に記載がある)。
公共の分野について正しい判断をするには、政治や経済について多くの知識が必要とされる。仮に有権者として意思表示するために正確な知識を得ようとしたら、いくら時間があっても足りない。有権者の多くは仕事や育児等、多忙な生活がある。自分の一票などほとんど意味がないと考え、自分の趣味や家族のことに時間を使う方が合理的と考える。つまり、合理的無知とは、あえて公共の制度やその背景には関心を払わず無知なままでいる、という主体的な姿勢である。
合理的無知の危険性
この考え方は、とても無駄がなく、そしてわりと一般的な考え方でもある。普段、社会保障制度の詳細を知らなくても、具体的に自分や家族に介護が必要になった時、子供を保育所に預けたくなった時等に利用できればそれでいい。全体に対する理解は生活上必要ないし、他にやらなくてはいけないことはたくさんある。
合理的無知にも一理あるし、世の中とはそういうものだとも思う。しかし、この考え方の一番の問題点は、自分で考えることを放棄しがちになるという点である。そうすると、他の人が言っていることをそのまま鵜呑みにしてしまう危険性をはらんでいる。結局、一部の声が大きい人たちや扇動家の望む方向に社会が向かっていきやすいのである。
制度が複雑になるということは、それだけ一般の人たちの乖離を産む。場当たり的な対処の連続と根拠があいまいな仕組みだとなおさらそうである。僕が思う複雑化巨大化の最大のデメリットはここにある。
なんとなく将来が危ないことはわかっている。制度が負担としてのしかかってくるプレッシャーは感じる。だけどどこがどう危ないのか考えてもよく分からない。不安感を払拭できないので、目の前にあるやらなければいけないことに集中して、不安の先にあるものにあえて目をふさいでいる。そんな空気が世の中を覆っている気がするのである。
教育の重要性
もう一つ重要な点が、教育である。日本の公教育では社会保障制度について掘り下げて教えられていない。事実として、こういう仕組みがあるという記述は教科書にあるが、どういった経緯で、どういった思惑で制度が構築されたか記述がない。背景がごっそり抜けているのである。ただでさえ複雑な制度なので、学んだことが頭に定着しにくい。問題は、背景に流れる哲学や理念がそもそも曖昧なので、その記述のしようがないことである。
複雑な制度、合理的無知、教育、これらが制度と国民の乖離を生み出している主な要因である。教育については、子供だけが学ぶべきものではないし、むしろ全世代が関心をむけて学んだほうがいいと思うが、先に述べた事情により学ぶ意欲もわかないというのが正直なところであろう。
スウェーデンの現状
ここでスウェーデンの例を挙げてみたい。社会保障というと北欧の国々にすぐ結びつけるのは、あまり好きではないが、比較対象があったほうが客観視しやすくなるのは事実である。スウェーデンの中学教科書を日本語に訳した本がある(「あなた自身の社会」)。
この本を読んでみると、社会保障が何故必要なのか、社会の成り立ちから順序だてて説明していることがわかる。法律の概念から始まり、社会における一人ひとりの役割、地域で何ができるか、どのような支援が実際に行われいているか等、社会の全容を丁寧に説明した上で、社会保障制度がどのように生活に役立っているかが述べられている。社会保障制度を含めた社会を、自分たちが作り上げていくという意識が芽生えやすいように工夫されている。
おしなべて、スウェーデンの国政に対する関心が高い(投票率85%前後)のは、背景に社会をどのように育てていくか考える下地があってのことだ。高い税負担と手厚い保障は、国民的合意の上で提供されている。だからといって全ての保障が手厚いかといえばそうではない。企業間の競争に関しての救済施策は薄く、弱肉強食のドライな社会である。競争力を失った企業は容赦なく市場から撤退させられる。その分、雇用保障や職業訓練を公的な機関で対応しているのだ。
手厚い保障制度を維持するためには、それ相応の収入が必要である。世界で通用する企業を育てるのは、国として合理的な戦略である。そしてH&M、Spotify、IKEA等、多くのスウェーデン発グローバル企業が輩出されている現状を鑑みると、その戦略は功を奏しているようにみえる。背景に、社会を育てる哲学と理念が国民的コンセンサスとして根付いているからこそである。
もちろん、日本がそのままスウェーデンのような制度を取り入れればいいわけではない。それぞれの国の置かれている状況は違う。ただ僕は、日本でも制度を他人事としてとらえるのではなく、自分たちで作り上げるという意識を社会全体でもう少し持ってもいいのではないかと思うのである。
自分事ととしてとらえる重要性
こう書くと政治活動やらロビー活動を推奨しているみたいだが、それともまた違う。あまりにも硬直した日本の現状を振り返ると、政治を動かすというよりも、一人ひとりの意識が社会保障用制度を自分事としてとらえる人が増えるほうが、むしろ自然と根っ子の部分から変わっていけるのでは、と考えるのだ。
社会保障制度のバックボーンにあるべき哲学や理念に考えを巡らすことは、制度の詳細を事細かに知ることとは別である。否、知ることは自体は大いに結構だが、詳細に入り込むことによって、議論が蛸壺化ことが不毛である。特に全体をみる目を曇らせる。現状の政治的議論では、抜本的な解決策には至らず、業界内のパイ(資金や社会資源)をどう配分するか程度の話しで留まることが多い。
それでも合理的無知の姿勢を貫いたほうがいいのだろうか?時間がないから面倒なことは専門家に任せていいのだろうか?税金を払っているから、自分たちに責任はないのだろうか?もちろん、どのように考えるかは個人の自由である。でもそれほど難しく考えるようなことでもない。
社会保障制度はそこに住む人たちがどういう生活を望むのか。それを実現化させるためのものである。望む生活とはどういう生活なのか?そのためにはどういう保障が必要なのか?今置かれている状況でどれだけのことが保障できるのか?出来ないならば何が足りないのか?どの保障を優先したほうがいいのか?逆に必要でない保障もあるのではないか?
そういった当たり前のことから考えを巡らせてみてほしい。社会保障制度以外で解決の手法があるかもしれないし、別に制度にこだわる必要は全然ないのである。特に近年、インターネットやテクノロジーの分野での発展は凄まじく、これまでの発想では計り知れない、思いもよらない仕組みが出来る可能性を秘めている。
さらに言えば、今まで国ごとに構築されてきた社会保障制度が、国という範疇を越えていくかもしれない。もうこうなると社会保障制度と呼べるか分からないが、人の想像力は無限である。僕は可能性をとじて悲観的になるより、少しでも興味を持って、自分たちの未来に対して建設的に考えていきたいのである。