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妖しげな孔明
諸葛亮孔明。言わずと知れた三国志のスーパースターである。世間のイメージでは、主君の劉備に仕える忠義の天才軍師といったところだろうか。数で劣る劉備の勢力を、その縦横無尽な軍略で、蜀という三国時代の一角を担う国にまで押し上げた一番の立役者である。
しかしである。何を隠そう(隠してないが)蒼天航路では孔明を妖しげで常識外れな人物として登場させる。その人物は、頭脳明晰でありながら、地に足のついていない酷薄な空論を振りかざし、浮き世離れした妖精のようなビジュアルを携えている。眼には、瞳が3つ描かれており、3つの天下を天秤にかけるメタファーとなっている。
なにせ登場シーンから変人感が半端ない。桃源郷にこもる孔明に、遠路はるばる劉備が会いに行くのだが、二人が会った瞬間に、孔明は「天は淫猥にして卑しいものだ、このように」と自分の股間を劉備に見せつけるのである。

孔明!
通常、劉備と孔明の出会いのシーンは、三顧の礼として充分に礼を尽くすエピソードとして道徳の教科書にでてきそうな話しとして語られるが、さすがネオ三国志孔明。いきなりちんちんをさらすのである。変人どころではなく、正真正銘の変態である。
完璧な理解者
いかに変態であろうと、腐っても孔明である。この世の出来事は、すべて孔明の手の内で動かされているかのような前提で、ストーリーが進んでいく。有名な長坂の戦いでは、劉備に天下人になるために意識を変革させ、降伏論に傾きかける大戦前の呉陣営において、孫権に交戦を決意させるようしむける。表向きは、道化のような立ち振る舞いをしつつも、巧みに自分の思うがままに人を操っていく。
当然ながら、孔明は曹操も自分に意のままに操ろうとする。赤壁の前哨戦で呉軍の奇襲を受け、曹操は命からがら、ある村に落ちのび、意識が混濁した状態に陥る。瀕死の状態の曹操に対して、孔明は潜在意識に働きかける。自分こそが曹操の最大の理解者として…。
「あなたのすべてに感応できる私がここにいる」
しかし、曹操はそんな孔明の語りかけも、まるで無かったかのように意識を取り戻す。そして近くにいる孔明のことを全く視界に入らないかのように動きはじめる。ここで始めて孔明は、曹操には自分が見えていないことに気づく。不思議に思う孔明。そこで孔明は、昔から傍らにいる人物にこう咎められる。
「民草が天下を語らぬように、曹操が君のことを語ることはない。曹操にとって君は存在しないも同然なのだ」
孔明は、曹操が自分の意が通じない相手だと気付かされる。それを機に、今までどこかふざけて適当に遊んでいたような言動が、真剣な表情に一変し、かつ徹底的に曹操にこだわりはじめる。そして物語は、赤壁の戦いへとなだれ込んでいく。
曹操VS孔明
赤壁の戦いの自体は、黄蓋の奇計から火攻めへとオーソドックスな展開で進んでいく。決戦の最終段階で、いよいよ大敗が濃厚になり、曹操とその軍勢は撤退をし始める。それと別にパラレルで進むのが曹操と孔明とやり取りである。
孔明は、自分の想定外の態度をとり続ける曹操に対してだんだんと苛立ちが隠せなくなる。これから過酷な撤退を迎えるにも関わらず、曹操は怯えもせず淡々と的確に部下達に撤退の指示をだす。孔明は自分の理解の及ばない存在が許せず、最後にはその存在もろとも消し去ろうとする。そこで曹操は初めて孔明に向き合い言葉を投げかける。
「くどい」
絶句する孔明。曹操は孔明が見えなかったのではない。全て見透かしたで、あえて無視していた。自分が最大の理解者と思い込んでいた孔明の衝撃はいかばかりだったろうか。結局曹操の手の中で遊ばれていただけだったのだ。最後に孔明にこう言い残して立ち去る。
「赤き壁より降りて漢土の巷間を這い、人に塗れて出直してこい」
この言葉を受けて、孔明は呆然としながら「玄徳様」と劉備の名を呟きつつ気を失う。それと同時に、三つあった瞳が一つに収斂されていく。この後、蒼天航路では、孔明はショックで立ち直れなかったのか、しばらく登場シーンがない。
再登場した際は、変態孔明ではなく、一般のイメージに近い孔明として登場する。曹操に打ち負かされた結果、人を手玉にとることをやめ、劉備の忠臣になって徹底的に曹操と対峙することを選んだ、とも解釈できる。
人を知るということ
この一連のエピソードは現実離れした表現が続くので苦手な人は苦手かもしれない。でも僕はとても気に入っているエピソードの一つである。現実か架空か区別しづらい演出も、孔明が示していた世の中に対する姿勢を比喩として表していたと考えれば、そういう表現もありかなと思える。
曹操は、人に対して確かに尋常なる興味を持っていた。勿論、才能ある人を常に求めていたことは、史実にもあるように事実に違いない。でももう一つ付け加えるならば、曹操が人として認めるのは人を知る人であった。想像や理屈で人を知る人ではない。現実世界にもまれながら、喜びや苦しみ、愛情や憎しみをもって人を知ることである。
僕が世の中に対峙するとき、肝に命じて意識していることでもある。でもついつい知ったようなことを口走ってしまうこともあったりする。何か幸福だとか、生きる実感だとか感じること出来るとすれば、それは空想空間ではなく「人」を知る先にしかあり得ないと思うのである。