誰のための認知症ケアか(後編)

認知症ケアの根幹

多面的な視点

認知症ケアで重要なのは、認知症をもつ人の視点を理解するということである。その理解には、人はそれぞれ違うという個別性を意識する必要がある。

さらに、一人ひとりに対して多面的に理解していくという姿勢が求められる。認知症は、脳の機能が不可逆的に失われるという医学的な要因のみならず、性格、生活歴、社会性、身体状況を含めた様々な要因がからみあって起きている状態だからである。

そういった姿勢や態度が、認知症ケアの根幹にある。パーソンセンタードケアは、根幹に流れる考え方であり、その根幹が揺らぐと、認知症ケアを実施する意義がなくなる。

人を尊重する姿勢

認知症を持つ人に対して、適切なケアや対応を提供するためには、その人のありよう・その人らしさを理解し受け入れてそれを尊重する、といった基本的な態度が必要である。

それがなければ、ケアする側の思い込みで、自分よがりのケアを強要することになってしまう。よかれと思って実施したケアだとしても、相手に不安や怒りをもたらしてしまうかもしれない。それでは、ケアする側もされる側も、お互いつらい時間を積み上げることになってしまう。

認知症ケアに限らず、介護とは、食事や排せつの介助だけをすればいいというものではない。もし、人に対する個別的な視点が欠けていれば、単なる流れ作業に陥りかねない。

人が悲しくなったり、不安になるのは、自分が人として尊重されていないと感じた時である。認知症の人に限らず、全ての人が自分自身の経験を振り返ってみて、それは理解できると思うのである。流れ作業のような対応を受けていれば、ますます認知症が進行するリスクは高まる。

ただし、人が人を理解する難しさも同時に痛感するところである。人ひとりの理解を、ケアする側がひとりで、もしくは少人数で背負い込もうとしても、それはとても大変な過程となる。であれば、大勢の人の手を借りて対応していくほうが現実的である。

チームケア

共通理解を持つ

認知症ケアでは、認知症を持つ人に対して、共通理解をもったチームをいかに築けるかが鍵をにぎる。

【図1】

そのチームを図で表してみると、左の【図1】のようになる。真ん中の青い円は認知症を持つ本人を示している。その周りの小さな円が、様々な関係者を表しており、その関係者たちが本人を囲んでいる。

関係者は、家族、医師、ケアマネジャー、ヘルパー、看護師、理学療法士、地域住民等、本人の生活にかかわる人たちである。

関係者たちを、それぞれ大きな円で結び付けているのは、本人( I )に対するケアの理解を共有しているという前提である。

認知症ケアの要は、いかに臨機応変にこの形をつくれるか、という点にある。この形の中で、関係者たちが本人に対する理解をすすめ情報を共有し、協力してケアを実践していくことでより効果的なケアが期待できる。

しかし現実として【図1】のような形にもっていくのは容易なことではない。もう少し図を使って説明したい。

【図2】

【図3】

【図2】で表したのは、関係者同士で横の連携がとれていない状況である。連携がとれていないと、関係者が行うケアが、それぞれ個別では間違っていないとしても、全体としてちぐはぐなケアになる可能性がある。本人に対する理解にバラツキが生じやすい。

その状況が本人に混乱をもたらし、ケアに対して拒否的な言動を導いてしまうかもしれない。したがってケアの方針に対する共通理解を得ておくことが重要である。

ただし、チームの共通理解が、本人の個別性の配慮なしに関係者のみですすめられてしまっては、ケアの意味を成さないのである。【図3】は、そのような状態を表している。

認知症ケアにおいて、「本人不在のケア」はとても陥りやすいパターンである。例えば施設において、入居者を「何もわからない、奇妙な行動をとる人」ととらえていると、職員の都合が優先され、時間どおりにオムツ介助や入浴介助を進めることにフォーカスするようなケアが横行してしまうことになる。

つまり、本人不在のケアを実施するためにチームワークがとれていたとしても、それは本来の意味での介護や認知症ケアにはなり得ない。パーソンセンタードケアの理念は、そういったケアに陥らないための防波堤としての意義もあるのだ。

同じ方向性を共有する

当然ながら、認知症ケアにおけるチームワークは、各関係者が同じ方向を向いていないと効果を発揮できない。しかし立場が違う人が集まると、すれ違いが生じることも多い。認知症ケアの難しさの一面がそこにある。

パーソン・センタード・ケアの「センタード」とは、認知症を持つ「人」にフォーカスするという意味である。認知症の人を、中心に置くというふうにとらえ、何か特別な存在として祭り上げることだと誤解される場合がある。

【図4】

認知症ケアのチームにおいて、家族はそのチームの重要なメンバーの一員となる存在である。【図4】において、「F」の円は家族を示している。

なぜ重要な存在なのかといえば、本人の隠れた性格や生活歴など、家族にしか知らない情報を多く持っているので、その情報がケアに活かせることが多々あるからである。

しかし、本人が認知症のため上手く自分の意思を表現できないからといって家族の意向ばかりに注意が向けられては、これまた本人不在のケアになってしまうのである(【図5】)。家族がサービスを受ける側としての権利をことさら強調し、客として威圧的にサービス内容にあれこれ指示をする、という具合になってはまずいのである。

【図5】

もちろん一部の人であるが、ケアの現場に本人の代弁者として、自分たちの指示を絶対のものとして上下関係に持ち込もうとする家族もいる。大抵の場合、それは本人の意向というより家族を満足させるための意向である。

その思い込みは、チームケアの能力を著しく削ぐ。介護サービス事業者は、サービスを提供する主体ではあるが、チーム内に命令系統があるわけではなく、同じ目的をもったチームの一員としての行動が求められる。

家族という立場上、自分の親や兄弟を客観的にとらえられない場合も充分ある。例えば、昔立派だったイメージがある親に対して「このくらいなら出来るはずだ」と現実を受け入れたくない、認めたくないという心理が働くことがある。逆に、なんでこんなことが理解できないんだ、と無性に腹がたつことだってある。

今までの家族関係の歴史が濃く長いものであれば、そういった感情を持つのはむしろ自然である。であればプロである第三者の視点に耳を傾けることで、家族自身がその関係性を振り返る機会になり、本人に対してよりよいケアに繋がる可能性が広がるのである。

フラットな関係性を築く

【図6】

チーム内の力関係をフラットに保つことは意外に難しい。一部の関係者だけの声が強くなるのは好ましい状況ではない。認知症ケアでは様々な視点を得られれば得るほど、効果的なケアに近づけやすい。

【図6】の緑の円(D)は、医師を表している。この図の示すところは、医師の影響力だけが突出している状態である。

もちろん、医療面における医師からの所見、提言は貴重な情報となり得る。だが、それだけが認知症の原因ではない。パーソンセンタードケアの考え方によれば、先に述べた5つの要素が絡み合って生じているのが認知症である。

全ての要素を踏まえた上でケアが成されるべきで、だからこそ様々な専門性を持つ関係者の視点が必要なのである。社会的地位が高い人だから意見が通りやすいというのは、思考が停止している状態である。

もちろん、すべての医師がそうだとは言わないが、中には認知症患者にデイサービスに行くよう、判で押したように勧める医師もいる。それで症状が改善する人もいるが、かえって不穏になる人もいるのである。

新しいとらえ方

【図7】

最近では、パーソンセンタードケアに対する考え方も実践の中で進化している。シルビアシスターの資格(スウェーデンの認知症認定看護師)を持つ人から聞いた話しだが、【図7】のようなとらえ方を、現場では行なっているとのことだ。

ケアの方針を話し合う際に、本人にもできるだけ参画してもらい、言葉が適切に話せなくても、周りが意思を汲み取る工夫をしているとのことである。

僕は【図7】のような視点で認知症ケアをとらえることが今まで出来ていなかった。【図7】の発想は、本人に対する尊厳を大事にしており、チームメンバーの意識を、いい意味でがらりと変える可能性があると感じるのである。

以上、認知症ケアの重要性を、根底にある人に対する考え方とチーム運営を中心に述べてきた。つきつめれば、共通の目的をもった関係者がタッグを組んでいる状態を継続することが、本人のQOL(クオリティ・オブ・ライフ)を保てる力強い支援となるのである。

社会における理解の重要性

具体的な認知症ケアの手法として「ユマ二チュード」や「バリデーション」などがあるが、人に対する理解がなかったり、チームが機能していなければ、それは形だけのテクニックになってしまう。

認知症ケアは、介護の専門家だけがかかわっていればいいというものではなく、多くの人の理解の土台があって初めて有効に作用するのである。

前回の統計でみたとおり、日本では認知症の人が、大多数の国民の生活に入り込むことが日常の風景となりつつある。今後、否応なく認知症と向き合う場面が多くでてくる。だからと言って、全ての人ががっつり認知症ケアにかかわったほうがいい、と言っているのではない。

近隣住民の安否確認、自分の特技を活かしたボランティア、地域でのイベントの主催、参加等、ちょっとした繋がりをもつことは、もちろん大きな支援となる。

ただその前提に、パーソンセンタードケアとチームケアの重要性を、理解することが必要である。むしろ、その理解を長期にわたって維持することが一番のハードルとさえ言える。

認知症という症状の特性から、その負の面ばかりが強調され、認知症が忌避すべき状態、人としてあるべき状態ではない、という認識が不幸の連鎖の始まりである。

一度そう認識してしまうと、ストッパーが効かなくなり、どんどん人として扱うことを放棄してしまう可能性が高まる。転がるように身体拘束や虐待に結びつきやすい。なんとかストッパーの役目を果たすのが、パーソンセンタードケアとチームケアである。

自分は認知症とは絶対関わりたくない、保険料と税金を払っているんだから、あとは介護事業者や公的機関が責任をもって面倒をみるのは当然だ、自分で選んだ職業ならば、どんなにつらくてもその苦労は甘んじて受けるべき、という考え方も相互理解からはほど遠い。

介護の人手が全く足りていない現状を鑑みれば、認知症ケアマッピング等を活用した認知症ケアを広く活用していくのは、楽観的な理想論に聞こえるかもしれない。

しかし、いくら介護の人手を増やしたところで、社会全体(もちろん介護に携わる人たちも)に認知症とそのケアに対する理解がなければ、根本的な問題の解決にはならないのである。

誰のための認知症ケアか

誰のための認知症ケアか、と問われれば当然認知症を持つ人のためと言える。ただよくよく考えてみるとケアする側のためとも言える。家族や介護のスタッフが自分たちのケアを、人としての尊厳を守るための手法ととらえれば、それはケアする側の存在意義につながる。

それが地域やボランティアなど周りの人たちに理解が広まれば、地域や社会の尊厳が保たれるのではないだろうか。そういう意味では社会のための認知症ケアとも言える。

多くの現場では、今はとても理想のケアは実現できない、時間と労力がさけない、という現実があることは重々承知している。ただ目指すべきあり方として、認知症ケアの根本的な価値を心に抱いておくことは、絶対に必要だと考えるのである。

おすすめの記事