
多くの進行性の疾病は、罹患して月日が経つと介護サービスが必要な状態になることが多い。例えばALSという進行性の難病があるが、この病気は、神経細胞が侵されることにより徐々に筋肉の動きが低下するという症状がでてくる。
ALSでは運動ニューロンが侵されるが、自律神経や知覚神経は侵されないので、五感や知性は基本的に維持される。例えば、身体がぶつかると痛いと感じるが、身体を避けようと思っても患者は動かせない。手脚の動きはもちろん、進行がすすむと、話すこと、食べること、呼吸することに支障がでる。そうなると人工呼吸器が必要だし、入浴、排泄、食事等、日常生活には介護が必要になる。
ALSにかかった有名人といえば、スティーブン・ホーキング博士がいる。発症したのが学生の頃だというから、2018年に亡くなるまで50年間位この病気と関わっていたことになる。その知性は、生前衰えることはなかった。
介護の現場にいると、ALSを発症した利用者に関わること、あるいは具体的な事例を見聞きすることがある。例えば、夫婦二人のうち一人がALSに罹ったとする。そして子供は別居しているとする。病気が進行するにつれ、だんだんと日常生活に介護が必要になる。
そんな時、多くの利用者は「子供に迷惑をかけたくない」「子供たちには子供たちの生活があるから」と言う。ALSに限らず、介護を受けるようになると、このような意向を示す人は本当に多い。その意向を受けて、なるべく夫婦だけで対応できるよう介護サービスを組むことも多い。
住んでいる地域にもよると思うが、人工呼吸器をつける状態になったとしても、介護や障害サービスを手厚く利用すれば、毎日ヘルパーを複数回利用することが可能だ。利用者の配偶者には負担はかかるが、他の家族が直接的な介護をしなくても生活することは出来る。
またサービスを提供している側の意見として、「利用者本人が疾病のことを本当に理解しているのかわからない、という印象がある」ということをたまに耳にする。ただ、たんたんと日常生活をおくっているようにみえて、本人(とその家族)は疾病に対する正確な理解をしているのだろうかと。
私は進行性の疾病に罹ったことがないし、近い家族がそのような状態になったこともないので、本当の意味で理解することはできないかもしれない。利用者に気持ちに寄り添っている、なんて言葉は容易には使ってはいけないかもしれない。ただ一つ言えるのは、疾病に真正面から向き合うことを避ける、という心境はあるだろうと想像できる。
疾病を理解しておいたほうがいい、というのは言ってみれば、楽しむことはいいことだ、と言っているようなものである。充分に頭では理解しているものの意識的に考えを避けてしまうこともあるだろう。現実は往々にして辛く厳しいものである。ならば、せめて人に迷惑をかけず日常生活を続けようと、そう考えても不思議はない。
正直なところ、ただ生活するだけなら単純に介護サービスを組み合わせれば可能である。生存するための介護サービスを提案するのは、極端に言えばAIにでも出来る。AIに出来ないことと言えば、そのケースから何かを感じ取ることである。
あるALSのケースを例に挙げよう。夫婦二人で生活しており利用者は、なんとか歩行が出来るが発語は出来ない状態になっている。介護は配偶者と介護サービスで対応している。子が二人いるが、一ヶ月に1、2回来て孫の顔を見せて数時間で帰る、という生活を続けている。
そこで担当者は、何かは分からないが、ちょっとした違和感を感じたという。探ってみると、それが「子供には迷惑をかけたくない」「疾病について向き合わない」という側面にあるという仮説をたてたわけである。念のために言うが「子供に迷惑をかけたくない」等の意向は別に間違っているわけではない。
普段、当人たちとコミュニケーションをとっている担当者が感じ取った違和感に意味があるのである。表面にでている言葉や態度から裏に潜んでいる意向を探り当てる。これは人間にしかできない芸当である。
本当は本人がもっと子供に伝えたいことはないのだろうか、当人たちの言う迷惑とはなんだろうか、子供たちが考える迷惑と本人が考える迷惑は同じなのか、いろいろと想像を働かせると本人が望むケアというのは、もっと違ったかたちがあるかもしれない。
ALSは、知性に影響がないから、今後も伝えたいことは伝えられると思う。ただし徐々に行動に制限がでてくる。今の時点でしか出来ないこともある。伝えることは何かを他者に残すことでもある。家族に残せるものが何かあるのではないか。そう考えると今出来ることはたくさんあると思う。本人の裏の意向が少しでも達成できるよう環境を整えられれば、ケアをアレンジした甲斐があっただろうと思うのである。
進行性の疾病と言えば、ガンの末期患者等もそうである。身体にでる影響はそれこそ千差万別である。また認知症について言えば、本人の意向が想いもよらない様々なかたちで表出する。介護の現場とは、想像力が試される現場の宝庫なのである。